解説

第十章 悪魔と魔女の後日談(2)

あとがき

 本書は一般に『東方魔女異聞』と呼ばれている魔女物語の一つであり、作者リェイジュンの自筆本と考えられているイルファレン柱ヶ丘図書館旧蔵本の忠実な翻刻である。カポイルに伝わる『魔女来歴記』やフィオリアに流布している一連の魔女物語に対し、東(イルファレン)に伝わる異質な魔女物語として『東方魔女異聞』と呼ばれるようになったらしいが、それがいつのことなのか明確ではない。
 それは、この物語がほとんど流布することなく、つい最近まで偽書と考えられていたことに起因している。ほぼ同内容の伝本はユリーツィアに一系統しか伝わっておらず、それらはすべてフィロス王六年(東暦一〇〇七年)の写本奥付がある伝シャーロット筆ユリーツィア公立図書館本に遡ることができる。
 当時から今に至るまで一方的に悪とされてきたグレスドール大公イグナシオ(後のフィオリア初代国王)を擁護する記述が見られることから、長い間フィオリアにおいて捏造された偽書と考えられてきた。たまたま伝わっているのがユリーツィアで、本文系統が一つしか存在しないことも状況証拠として利用されてきた。
 柱ヶ丘図書館は、一〇三一年の大地震と大津波で壊滅的被害を受けたが、本書はその前に運び出された本の中に偶然紛れ込んでいたものと思われる。しかし、その時点で表紙と背表紙は失われており、通常巻末に付される書名入りの奥付も脱落していたようである。そのため、長らく書名不明なまま、イルファレン市立図書館の書庫に眠ったままだった。
 しかし、一四二四年のイルファレン市立図書館大改修の折に発見され、少なくともユリーツィア公立図書館本より古く、その異本にあたることが確かめられた。その後の調査により、リェイジュン自筆本と認定されている『ファシュリア古歌謡集』と筆跡が一致することが判明し、ここにリェイジュン自筆本『東方魔女異聞』として世に認められることとなった。
 先にも述べた通り、この自筆本には署名入り奥付がない。それと同時に、本文中で巻末に収録したとされているアデーレ筆の反故文の臨模が、冒頭部分とおぼしき箇所を残して完全に脱落している。対して、ユリーツィア本には序文がなく反故文が収録されていない上に、九一六年の追記の記載もない。また、原本の奥付が写されていない(そもそもなかった可能性が高い)。二本の異同を鑑みるに、ユリーツィア本は草稿本を写している可能性が考えられる。
 こうしたことから、著者リェイジュンが脱稿した当時、本書にどのような題を付けていたのか完全に不明なのである。王の道に対する魔女の道とも言うべきものが本書を通じて表現されており、「王の歌」に対する冷静な批評も随所に散見される。おそらく本書は「王の歌」に対置されるべき「魔女の物語」と位置づけられていたはずで、書名もそれに相応しいものだっただろう。
 ちなみにアデーレの反故文は、当時中央大陸北部に棲息した知性ある龍たちが使用していた象形文字の一種であることが確かめられている。この文字は龍が人間と契約を結ぶ際に使われており、それ以外の場所で使用された形跡がほとんどない。同じく知性ある龍が棲息していたファシュル東部では相当昔に廃れてしまった習慣であり、文字の形も異なっている。またこの文字で書かれた文書も多くは残っていない。龍たちの間で独特の表記形態が確立されており、読み書きのできる者はそう多くはなかったと推定されている。おそらくアデーレは、龍および彼らに関係する人間と音信を通じる際に使用していたに違いない。彼女の出自についてはリェイジュン本人が指摘する通り完全に神話化されてしまっているが、相応の教育を受けた経験のある人物とみて誤りはないだろう。
 リェイジュンはアデライーデ・テイリーリャとほぼ同時代の人間であり、彼が編纂した『ファシュリア古歌謡集』には、たくさんの魔女(アデーレ)伝唱歌が収録されていることから、本書に述べられているような交流があった可能性は高い。
 また、ファルギウス・カンラートの『日記』には、アデライーデ・テイリーリャに関する記述とともにリェイジュンの名前も散見され、九〇六年二月一〇日にはカンラート家柱ヶ丘文庫(九一四年に完成する柱ヶ丘図書館の前身)に同行させた旨を記す件がある。この日記で、アデーレは九〇〇~九〇一年、リェイジュンは九〇一年と九〇六年以降ファルギウスの元に身を寄せていたことが確認できる。こうしたことから、本書は魔女と同時代を生き、その身近にいた人物による貴重な証言として位置づけられよう。
 むろん、本書の価値はそれだけにとどまらない。随所に挿入された古歌謡は、『ファシュリア古歌謡集』やその他の歌集との間に異同が見られ、歌の伝承の実態を探る上で興味深い素材を提供している。また、巻末に収録された反故文は、龍たちが使用した象形文字の変遷を明らかにするための貴重な資料である。そして何より、本書最大の価値はファルギウスの『高原言葉とニレド方言』と並び、当時のニレド口語の発音を知ることができる数少ない資料であるということに尽きるだろう。
 翻刻にあたり、地名や人名などの表記はすべて各原典に従った。また、ユリーツィア本と大きな異同のある箇所や、作中に部分引用されている歌や物語は、「王の歌」を除き注にそれぞれ簡単な解説を掲げた。その他歴史学的に明らかになっている事項についても必要に応じて注を付した。

 最後に、リェイジュン自筆本『東方魔女異聞』の発見後一〇年の節目にあたり、本書を世に送り出せたことに感謝したい。これは翻刻を分担して担当してくれた東都古文書資料館研究生の努力と、怠け者で遅筆な校注者を始終せっついてくれた印刷所のルーティア女史の根気強さの賜物である。

一四三四年六月吉日 校注者