第十章 悪魔と魔女の後日談(1)

第九章 魔女を追って(2)

(2)

 セルクリッドに来て五日目の朝になると、突然カポイル降伏と南部連合の勝利の知らせがもたらされた。しかし、一向にアデーレからお呼びはかからなかった。

もしかしたら、ラゴレスが待っているのはアデーレ本人からの知らせではないのかもしれない。僕はこの頃になってそう疑い始めた。でも、アデーレ以外に僕らを北に呼び寄せている人物は思い当たらなかった。

僕は周囲の好奇の目に曝されながら、ここに居続けることに嫌気がさしてきていた。僕らには当然、仕事らしい仕事は割り当てられていなかった。完全にお客様扱いなのだ。暇をもてあましていた僕は、マリーシャと二人で廃墟外れにある木陰で、持ってきた地図を開いていた。

「ここがセルクリッドなわけでしょ。これがアシュレ川よね。アデーレは今どこにいるのかしら。私たちだけでこっそり抜け出しましょうよ」

マリーシャもここでの生活に嫌気がさしてきていたのだ。

「今回ばかりは無理だよ。だって歩哨が立っているじゃないか。夜も昼も見張られているんじゃ抜け出しようもないよ」

僕は木陰に寝そべった。ここの生活には飽き飽きしているけれど、身の安全は保証されているようなもんだ。好奇の目に曝されているけれど、アデーレに逆らって僕らをさらったり、傷つけたりするような人間はいない。

不意に、遠くの空を白い鳥が横切るのが見えた。白鳥だろうか。それにしても夏には珍しい鳥だ。僕は起きあがって鳥の飛んでいく方向を見た。真っ直ぐ南に向かっていた。

「ねえ、私たち、結局のところ誰の命令でここまで連れてこられたんだと思う?」

「さあね。よく分からないよ。消去法で行くと、アデーレ本人しか思いつかないな」

僕はかねてから思っていたけれど、このことはこの時まで口に出さなかった。東からの帰りの時には、緑目男の一行が僕らを守ってくれた。そのことを考えると、今回の件もアデーレの差し金としか思えない。

「やっぱりそうよね。少なくともグレスドール大公でないことは確実でしょうし。そうなるとアデーレ以外に考えられないわよね」

「問題は多分、アデーレ本人が忙しすぎて僕らを呼び寄せられないことにあるんだよ」

その翌朝、僕らはようやくアシュレ川北の陣、つまりグレスドールに呼び寄せられた。今度は前回と違って、堂々と昼間に行軍した。アデーレからの呼び出しである以上、もうこそこそする必要もないわけだ。

僕らは出発二日目の夕方にアシュレ川を越えた。北東の浅瀬で、かなり上流だ。そして翌日の朝から川沿いに西へ向かい、昼過ぎには呼び出しのあったアシュレ川北の陣の総司令部にあたる天幕に到着した。

でも驚いたことに、中で僕らを出迎えたのはアデーレではなかった。僕の親父だった。アデーレは既に北を立ち、秘密裏にユリーツィアへ向かっていた。かれこれ三日前のことだ。小ガルシアはアデーレがここを去る前に忽然と姿を消したらしかった。

「我々の間には、極秘の手紙が何度も行き来していた。お前が彼女の保護下にいたことも知っていたし、ケディア侵攻のことはもっと前に情報が来ていた。それに、アデーレはユリーツィアのテイリール公妃とも音信を通じていたし、それ以上に、ケディア本国と頻繁に情報のやりとりがあった」

親父はあごひげをなでつけながら声を潜めて言った。

「もしかして、僕らをここに呼び寄せたのは親父だったのか?」

僕が尋ねると、親父はにやりと笑った。そうだったんだ。僕らをアデーレと引き合わせないために、わざとセルクリッドに留め置いたのだ。

「アデーレが作戦を遂行する上で、お前たちを人質に取られるわけにはいかなかった。お前たちの身柄を安全で手の届かないところへ運び出す必要があったんだ。だが、出発するまでセルクリッドにお前たちを留め置いたのは、アデーレ本人だ。そのことについてはわしの責任ではない」

僕もマリーシャも、アデーレに会えなかったことについてはいささかがっかりしたけれど、家族全員が無事であることを知って胸をなで下ろした。そして久々に家族全員が集合したことを喜び合った。僕らの冒険は幕を閉じ、草原で今まで通りの平和な生活が送れることをこの時は信じて疑わなかった。

でも、そんな喜びは夕食の席で霧散してしまった。僕らがここに呼び出された理由と、アデーレが僕らに会おうとしなかった訳を、小ガルシアが姿を消した顛末を聞いたからだ。

まず、アデーレは小ガルシアを極秘に脱走させた。自分がいなくなることで、彼の身に危険が及ぶことが明白だったからだ。そして、自分はグレスドール大公を伴って、南へ向かった。自分と引き替えにテイリール公妃の身柄をもらい受けるためだ。

そのことについては、かなり早くに話がまとまっていたらしい。身柄交換を行い、アデーレはケディア軍の拘束下に置かれる。その後、新たに結成されるファシュル連合(東を除く大陸の北から南すべての国が加盟する連合国家だ)との間に領土交換条約を交わし、中央大陸北部をケディア王国に返還し、ケディアはユリーツィアから撤退する。

その話がまとまっているにもかかわらず、僕らが人質としてテイリール側に捕まってしまえば、アデーレは僕らのために我が身を犠牲にしたように取られかねない。それは、親父としては絶対に回避しなければならない事態だった。だから、アデーレから公妃に連絡を入れて、ラゴレスを使いに出すよう要請した。

そしてこの事実を知っている者は、現在のところ僕らの他にアデーレの弟分であるコリンさんのみであること、グレスドール大公でさえ蚊帳の外であること、アデーレはここを去るに当たって全権をコリンさんに委譲していったことを知らされた。

「今後のことについてはそれほど心配はいらない。我々は北でかなりの功績を挙げた。少なくとも、遊牧民としての生活権は保証されるだろう。アデーレもかなり配慮していってくれた。ただし、少なくともあと二年ばかりはここにとどまるべきだと、でき得ればアシュレ川より北に生活できる場所を確保するようにと言い残していった。そのことについては他の面々ともよくよく話し合う必要があるだろう。
いずれにしても、現在我々はすべての家畜を失っているわけだから、すぐに草原に戻るというわけにも行くまい。状況が落ち着いてからよくよく考えることにしよう」

僕は親父の話を聞きながら暗澹たる思いにふけっていた。つまり、アデーレはもう二度と戻ってこないということじゃないか。そして僕らは彼女に会えたかもしれないのに、みすみすその機会を逃してしまったのだ。

――当時は不思議で仕方がなかったのだけど、ケディアは執拗にアデーレの身柄確保にこだわった。ユリーツィアに侵攻し、レティシア王妃を人質として捕らえたのは、偏にアデーレの身柄欲しさのためのようだった。

その理由は、ケディア古伝説を研究するようになって何となく分かってきた。彼らにとって、魔女と闘って勝利を収めることが、世界の王になるための資格であるらしいのだ。ケディア最古の歴史書『九龍記』には魔女の首をめぐって争いが起きた話まで残っている。彼らにとって魔女は、邪悪で厄介な存在であると同時に、殺して首を取れば王権を保証する象徴となりうる存在なのだ。

「なぜ、みんなしてアデーレを引き留めなかったんだ。みすみす殺されに行くのを、黙って見送ったってことじゃないか」

僕は親父に噛みついた。

「最終的な決断は彼女がしたことだ。あいつは最後に言い残していった。私はまた死んだふりをすると。二度とここには姿を現さないと。そしてそのことは小ガルシアにも伝えてある。自分のことは何一つ心配はいらない。お互いにうまくやっていこうと。いずれにせよ、稀代の名采配だな」

その最後のお別れの言葉を聞かされても、僕は納得できなかった。だって、彼女が生きていようが死んでいようが二度と会えないのだ。最悪の事態じゃないか。二度と会えないなら、死んでしまったも同然だ。いや、墓さえ建てられないのだから、事態はもっと悪い。

僕はそこまで考えて、不意に彼女が水沸谷に残していった物を思い出した。そして同時に、彼女があれをあそこに残した意味を理解した。彼女は将来的にはここでガルシアとともに眠りたかったのだ。

でも、そんな希望は果たされないかもしれない。異国の土となって墓も建たないような死に方をするかもしれない。その可能性を見越して、あのタイミングであれを残していったのだろう。

そして結果的に、彼女が恐れていたことは現実となってしまったのだ。僕は、彼女がすべてを予見していたなんて信じたくはない。自らの死を見越して、僕らと東に行き、戦いに赴いたなんて思いたくない。

「マリーシャ、僕らのやるべきことはまだ終わっていないよ。行くべきところに行って、僕らとアデーレの仕事を終わりにするんだ」

僕は夕食後に、意気消沈してうずくまっているマリーシャの肩に手をかけた。

「二人で、水沸谷に戻ろう。アデーレが残していったものを覚えているだろ」

マリーシャははっとしたように飛び上がった。

「まさか、お墓を作ろうってんじゃないでしょうね」

彼女はただならぬ剣幕で僕に怒鳴りつけた。

「そのまさかだよ」僕は悪びれもせずに言った。「あれがアデーレの願いなんだから。本当なら、将来的にここに骨を埋めたかったんだよ。ガルシアと一緒にね。だから、ちゃんとお墓を作らなきゃ」

「ダメよ。あの人死んでなんかいない。まだ死んだりしないわ」

「そうじゃない、あの人は何度も死んでるし、これからだって何度も死ぬだろう。でも、彼女の心は多分ここにあるんだ。そして、彼女の話もこれからここでずっと語られていく。だからこそ、あの廃墟に墓を建てるんだ。彼女が終わりにできなかったことを僕らが終わりにするんだ。『かくして魔女はファシュルを去り、残された者はみな幸せに暮らしました』いつか、そう語られる日が来る時のために」

マリーシャは堰を切ったように泣き出した。僕は泣かなかった。いや、泣けなかった。泣くことで彼女の死を認めることになると思った。それに、僕だって彼女を死地に追いやった者の一人だと思うと、涙を流す資格そのものがないように思われたのだ。

こうして、僕らと魔女の追いかけっこは僕らの敗北のうちに幕を閉じた。そして、この物語もここで終わる。

さて、アデーレが姿を消すに至った顛末はこれですべて語り終わったわけだ。でも、彼女が姿を消す前後の話については、少し後になって彼女の周囲の人間からもたらされることになった。そのことにも一応触れておこう。

まず、天幕内の文机にはアデーレが残していったいくつかの反故文がそのまま捨て置かれていた。それはどんな内容の手紙が彼女の元に届けられていたのか、様々な憶測が飛び交う原因となった。

というのも、その文字は特殊な象形文字 1で、誰一人として解読できなかったからだ。ケディア本国の誰に当てたものか不明 2であるが、とにかく同族に送ったものであることは間違いない。

これは、親父が焼却処分しようとしたところを、僕が始末すると言ってそのままこっそり頂戴してしまった。何しろ、数少ない彼女の形見だったから。忠実な臨模を巻末に掲載するので、そちらをご覧頂きたい。願わくば後世解読する人間が現れることを期待する。

また、何か秘密の交渉なり画策なりをしていたのかもしれないが、南に行く直前の三日間、彼女は一時行方をくらましていた 3らしい。これはコリンさんから伺った話だが、戻ってきた彼女は丸一日死んだように眠り続けたそうだ。そして、突然夜中に起き出してコリンさんと僕の親父を順番に呼び寄せて、それぞれに何かを言い残していったらしい 4

小ガルシアはアデーレの弦と弓矢、大ガルシア遺愛の短剣、それに馬をもらい受けて北から中央大陸へ逃亡したらしい。いや、正確に言えばアデーレの命令による事実上の脱走だ。戻ってきたアデーレにコリンさんが会った時点で彼は既に姿を消していた。そしてその席で、コリンさんは全権を委譲された。

おそらく親父が受けた忠告も、この時伝えられたことなのだろう。そして誰にも見とがめられることなく、アデーレはグレスドール大公と共に姿を消した。


Notes:

  1. 中央大陸北部の知性を有する龍、および彼らと協力関係を結んだ龍騎士たちが使用した象形文字。詳細は解説に記した。
  2. 現在この文字で記された他の文献は完全に解読されているが、この魔女の手紙の内容とあて先は不明である。暗号処理が施されているらしく、字面をそのまま読んでも意味をなさない。また当時も今もケディア族は差出人と受取人の名を手紙の文末に書く習慣があるが、この手紙の写しは冒頭と推定されている部分しか現存しない。そもそも反故文なので、原本にもあて先が記入されていなかった可能性が高い。
  3. この魔女の一時失踪については当時から今に至るまで様々な憶測を呼んでいる。『魔女来歴記』には、失踪の後に現れた魔女は右手を失っていたと記述されている。失踪は北部に残る帝国軍の残党との戦いのためで、その折に右手を失ったと推定しているが、他の文献にこのような記述は見あたらない。
  4. この時魔女が残したとされる予言が『南国本紀』や『北方戦記』に見える。両書に記された予言は大筋で一致しており、辰角ヶ岳の噴火と南北の再分裂、東の台頭が主な内容となっている。むろん両書の成立年代は早く見積もってもクラコス事件以降であり、魔女がこのような予言を残していた可能性は低い。