第九章 魔女を追って(2)

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第十章 悪魔と魔女の後日談(1)

 ラゴレス、マリーシャ、僕の三人は未明のうちに谷を抜け出した。それも、ごくごく秘密裏にだ。馬の蹄の音で人々の眠りを覚まさぬよう、細心の注意を払って谷を後にした。そして谷を出た後は馬をせかすように速度を上げて北に向かって走った。夜明けまでにできるだけ距離を稼がねばならない。ラゴレスはそう言った。

 夜が明けて日が完全に昇ってから、僕らは山陰に隠れた草地で朝食を取った。寝ずに走ってきたので、誰もがくたくただった。

「一体僕らは何から逃げているの?」

ひとしきり食事をし終えた後で、僕はラゴレスに尋ねた。

「いろいろな者からだよ。僕が命令を受けたのは二つ。一つめはアデーレへ連絡をつなぐこと。二つめは君たちをこっそり谷から連れ出すこと。これは多分、アデーレも納得済みのはずなんだ。今はこれ以上のことは僕の口から言えない」

「じゃあ、人質として私たちを連れ出しているんじゃなくて、私たちが人質にされないために連れ出しているってこと?」

マリーシャが尋ねると、ラゴレスはにっこりと笑った。

「君はいい勘してるね。そういうことさ。親父にはあそこまでいわないと納得して貰えなかったから言ったんだけど、実のところこれは誰の命令なのか分からないように遂行しなければならない命令なんだ。まあ、いずれ分かるけれどね」

ラゴレスは大きな欠伸を一つした。

「ところで、僕らはどこに向かっているの?」

「ひとまず、セルクリッド廃墟まで行くように、そこに行ってアデーレの居場所を確かめろと言われている。とにかく、向こうに着くまで屋根のある場所では寝られないと覚悟した方がいいね。少し眠ろう」

言うが早いがラゴレスは寝息を立て始めてしまった。

 僕らは、彼から少し離れたところにある小さな木陰に入った。そして、荷物の中に詰めてきた地図の巻物を広げた。小ガルシアが僕らに置いていったものだ。

「ねえ、もう一度鳩の巣山荘に寄れないかしら。あそこなら、少しは羽を伸ばせるわ」

マリーシャはそう言いながら地図をのぞき込んだけれど、今どこにいて鳩の巣山荘がどこなのか分かりかねるみたいだった。

「いや、やめておいた方がいいよ。おそらく、あそこに待機している部隊がいるはずだ。そして僕らを捕まえようとしている奴らが複数いることが分かったからには、ラゴレスさんの指示がない限り軍人に近づくのは避けた方がいい」

「そうね。そもそも、私たちがどこにいるのかよく分からないわ。これが草原で、この筋がアシュレ川かしら。そうなると、セルクリッドはこの辺りでしょう。これが水沸谷かしら。そんなに遠くなさそうね」

 でも、そう思ったのは僕らが地図を南北逆さに見ていたからだった。そのことに気づいたのは、かなり後だったけれど。

「僕らも少し寝よう。眠くてしょうがないよ」

 僕は草の上に体を投げ出した。虫が盛んに鳴いていたけれど、疲れていてそんなことは全く気にならなかった。

 昼下がりになって、僕はラゴレスに起こされた。

「飯を食ったら、また走るぞ。目立たないように、薄暗くなったら移動するんだ」

 こうして僕らの秘密の逃避行は続いた。薄暗い時分に走り、日が昇ったら物陰に身を潜めて休む。昼過ぎに起きて日没近くになったらまた走り始める。僕は二日目でもううんざりしてしまった。昼夜が逆転すると何だか体が本調子にならない。それは馬たちも同じだった。人間よりも夜目が利くとはいえ、本来夜間に活動する動物ではない。夜間に小休止すると、それ以降はあまり動きたがらないような素振りをすることが増えていった。

 四日目の朝に、山裾の廃墟群に着いた。そこの井戸は幸いまだ使える状態だったので、僕らは馬ともども綺麗な水を思う存分飲んだ。そして馬を木陰につないで、唯一屋根と壁の残る廃屋で身を横たえた。ベッドはないけれど、屋外で寝るより安心感はある。

 僕は何の気なしに視線を山側に走らせた。赤い花を付けた大きな木が山裾の廃家の脇に立っている。僕は妙にその木が気になって半身を起こした。壁の破れ目から何か青いものが見える。

「ここはどこなの? セルクリッド陥落の折に廃墟になったの?」

僕は隣で眠ろうとしてるラゴレスに聞いた。

「そうだよ。親父も俺もここで生まれた。俺に名前をくれた『居合いのラゴレス』って呼ばれていたおじさんもここで生まれ育ったんだ。昔はティルクレシアと呼ばれた村で、葡萄酒の名産地だった。俺はまだ三つだったから…」

そこまで言うとラゴレスは寝息を立て始めた。

 彼の記憶にはここで暮らした日々のことは残っていないのだろう。彼のお袋さん、つまりバジルダットの奥さんは水沸谷からここに嫁いで来たのだ。でも五年とたたず新居を追われ、子どもを抱えて実家に逃げ帰ってきた。そして一〇年前に亡くなってしまった。

 住む場所を追われ、家族と生き別れになったり死に別れたりしているのは僕らだけではないのだった。当然のことだけど、僕は自分がこのような亡命者になるまで実感として理解していなかった。僕ら草原の民が中立と称して関わり合いを避けていた人たちは、それなりに悲惨な状況の中で生きていたのだ。そして、その悲惨さを増大させることに、僕らが一役買っていなかったとは言い切れないのだ。

 僕は寝付いたラゴレスを起こさないようにそっと立ち上がって、廃屋の外に出た。西から乾いた強い風が吹いている。僕は例の木が完全に見える地点を探して歩いた。手入れをする者もなく伸び放題になった木立の角を曲がると、ようやくその大木の全貌が見えた。

 その木を一目見て、僕は思わず立ちすくんだ。梢の先端近くに青い大きな布が風を受けてはためいていたのだ。魔女の旗だ―僕はそう思った。アデーレは間違いなくここを通過していったのだ。マリーシャが後をつけてきたので、僕は黙ってその布を指さした。

「もしかして、魔女の旗?」

「さあ、どうだろう。とにかく行ってみないか」

 僕らは疲れていたことも忘れて、その木の根本を目指した。その木は赤い花ばかりでなく、所々にこぶし大の実をつけている。

「これ、石榴だわ」

木は傍らの家の屋根より高く伸び、青い布は二本の枝をつなぐように結びつけてあった。木の根本には明らかに人が食べたと思われる食べかすが捨ててある。

「間違いない。僕たちより先に、ごく最近誰かがここに来たんだ」

「ねえ、ひとまず寝て、ラゴレスとまた取りに来ましょうよ」

僕らは寝床にしている廃屋に戻って寝そべった。

「あれは絶対、アデーレよね。アデーレが私たちに残していったのよね」

「うん、そうだと思いたいね」

僕ははっきり断言できないと思った。仮にあれを残したのがアデーレだったとしても、僕らへの何らかの合図ではなくて、誰か他の人への伝言ではなかったかと思うのだ。

「私たち、アデーレに会えるわよね?」

「そんなこと分からないよ。ラゴレスの受けた命令がアデーレからのものとは限らないだろ。でもとにかく、今は黙ってラゴレスについて行く以外に道はないんだ」

マリーシャはため息をついて僕に背中を向けた。僕だって不安だったけど、空々しい慰めごとを言いたくなかった。僕はいつの間にか眠ったいた。

 それから丸三晩、僕らは北へ向けて馬を走らせた。時折街の跡と思われる場所をいくつか通り過ぎた。でも、何だか異様な雰囲気の場所もあった。それが住居跡らしいとは分かっても、相当古い年月、それこそ百年以上も前のものではないかと疑われるような代物なのだ。

 何という町か尋ねても、ラゴレスも知らなかった。そもそも、こんなところに街があったなんて知らなかったみたいだった。

「もしかして、いわゆる王の道の一部なんじゃないか」

僕はマリーシャに耳打ちした。でも、はっきりとは分からなかったし、誰一人分かる人間はいなかった。僕はアデーレの不在を心の内で嘆いた。

 結局、僕らがセルクリッド廃墟に到着したのは谷を出て八日目の朝方だった。夜は七晩昼は八日かかってようやく到着したわけだ。僕が徒歩で居住地から一四日かけて水沸谷に到着したことを考えると、距離的にはそんなに変わらないのかもしれない。

 幸い、僕らは引っ捕らえられたりすることもなく、天幕一つをあてがわれて休むように命じられた。久しぶりに布団の上で寝たので、僕はその日の夕飯の時刻まで目を覚まさなかった。

 その日の夕飯では、炊き出しの列に並んで久しぶりに火の通った温かいものを食べた。野営の、軍隊の中とはいえ、ようやく一息つけた気分だった。何しろ、戦場にありがちなピリピリした雰囲気があまり感じられないのだ。僕らは、天幕の近くに居合わせた分隊の食事の輪の中に加わっていた。

 おそらく、伝書鳩のせいだろう。ケディア軍のユリーツィア侵攻は既に知れ渡っているらしく、ここでは既にカポイル陥落後の帰還についての話題が飛び交っていた。そして、アデーレがふるう采配についてもあれこれと予想する輩があふれていた。

 僕らがなんの情報にも接することなく七日間移動している間に、戦況は明らかに変わっていたらしい。どうやら、現在帝国北部で反乱を主導しているのは北部草原の民らしいことが伝わってきた。そしてその働きもあって、帝国はもう足元から崩れかけていること、間もなく降伏して講和に入るだろうことがしきりに噂されていた。

 そうした話の端々から、どうやらヒジュロスさんが戦死して、現在総指揮を執っているのがアデーレであるらしいことが分かってきた。また、ヒジュロスさんの死にはアデーレが何らかの関わりがあるらしいこともほのめかされていた。

 僕らが北草原から南に亡命中で、現在北を目指していることが知れると、周囲は僕らのことを褒めそやした。

「若いのによく物怖じせずにここまで来たもんだ」

「北部での反乱軍には、きっと君らのご親族も加わっていることだろう。彼らはどこまで行くんだい?」

隊長らしき人が、ラゴレスに尋ねた。

「私は伝令の途上、彼らを保護し、将軍の元に送り届けることになっております。彼らの親族は将軍と親しい間柄にあり、彼らは一時将軍の保護下にありました」

この一言で、全員が好奇の目で僕らを眺めだした。

「あの将軍の知遇を得ているとは、道理で若いのに物怖じしないわけだ」

 それから五日間ばかり、僕らはセルクリッド廃墟の陣に留め置かれることになった。将軍の知遇を得ている草原の民の子として、僕らはあっという間に有名になってしまった。そのことは、残念ながら陣中における居心地をやや悪くする結果となった。

 それでも、それは決して悪いことばかりではなかった。僕がアデーレのことをよく知っている人間だと誤解している人間から、いろいろな情報を仕入れることができたのだ。とりわけ、ヒジュロスさん死去のいきさつについては思っても見なかった衝撃的な事実が明るみに出た。

 大ガルシア暗殺の張本人はヒジュロスさんだったのだ(むろん、あくまで実行犯であって黒幕は別にいたわけで、おそらくそれはグレスドール大公であったに違いないのだけれど)。なぜその事実が明らかになったかというと、葬儀の際、彼女が挽歌の詠唱を拒否したからだった。そこで彼女はヒジュロスさんが大ガルシアを暗殺したいきさつを語った。その上で自分の養父に対してさえ歌うことができなかった挽歌 1を、養父の仇の死に際して歌うことはしないと明言したらしい。ヒジュロスさんが荼毘に付される際、挽歌を詠ったのは彼のごく親しい友人や部下たちばかりだったらしい。女声 2がなく、むさ苦しい葬儀だったという話だ。

 それと同時に、小ガルシアに対する話もたくさん持ち込まれた。いや、むしろ僕のところに何人かが聞き込みに来た。彼が本当に大ガルシアの息子なのか不審の念を抱いている輩がこれほどまでいることに僕はいささか驚いた。そしてしまいにはあきれてしまった。別に本当の息子かそうじゃないかなんて大した問題じゃない。

 いや、テイリール家にとっては大問題なんだろうけど、アデーレが信じ、小ガルシア本人が信じているならそれはそれでいいではないか。――実際、その子の父親が誰かなんて、母親にしか分からない事実だ。母がいないなら、本人が誰を父親と信じるかという問題になるわけだ。誰から伝え聞いた話を信じるかは本人の自由であって、周囲がどうこう言うことはない。本人の誕生以前を語る人間が消え失せた時、出生はある意味で神話化された物語と化してしまう。アデーレがその典型だ。

 そうなった以上は、信じる信じないは当人も含め各人の判断と言うことになる。どんなにあちこちで聞き回ったって、それは結局お話の一つでしかない。

 そんなわけで、僕らは今までとは打って変わって情報多寡な状態の中で過ごす事になった。軍の上層部からラゴレスを経由して降りてくる情報以外に、根も葉もない噂が僕らの耳にも飛び込んでくる。そうした情報を僕らが耳にする事に、ラゴレスが心を痛めていたことは雰囲気から分かった。

 大ガルシアとヒジュロスさんの間にあった確執や、大ガルシアの出自に関すること。そしてそこから派生する形で小ガルシアの母親に関する噂などが幾つも飛び交っていた。でもどうやら大ガルシアの出自 3に関しては確かな情報みたいだった。

 そもそも、大ガルシア自身が私生児として生を受けたこと。母親はイルファレンの歌姫だったということ。テイリール家の末流で武器商人をしていた父が、商用でイルファレンに赴いた際に出会ったらしいこと。正式な結婚どころか妾として待遇することさえせず、母子はかなり貧しい生活を余儀なくされていたらしいこと。たまたま彼が唯一の男の子だったために、父は半ば強引に息子を引き取ってきたらしいこと。などなど。

 そういう状況で武器商人見習いにされた大ガルシアは当然父親に反発した。武器一つまともに扱えない父親が、武器の売買で儲けている。そのことが特に気にくわなかったらしい。そんなわけで大ガルシアは傭兵として武器一つで身を立てることを決意し、父の元を飛び出してしまった。彼がアデーレを西海岸で拾い、シャニィと名づけて養女に迎えるのはそれから五年後のことだった。

 僕はこの話を聞いて何だかやりきれなくなった。それは多分、マリーシャにしても同様だったと思う。まるで小ガルシアが語ってくれた彼自身の出自の引き写しみたいだ。大ガルシアがアデーレを拾い、アデーレは小ガルシアを拾った。そして二人の行く末は決して明るいものではなさそうだという予感が、僕は縁起でもないとは思いつつも、どうしてもぬぐえなかった。


Notes:

  1. おそらく「諒王挽歌」だろう。ディラスケスを目前に諒王は崩御し、南遷してきた王家はここで断絶した。荼毘に付すにも薪となる木が近くになく、クラコスで見つけて運んできた。その遺灰をディラスケスに流す際に歌われた歌が「諒王挽歌」であり、現在に至るまで葬儀の際に詠唱されている。それがどのような経緯で「王の歌」に取り入れられたのかは不明。
  2. 歌詞の内容からも分かるとおり、「諒王挽歌」は本来近しい間柄の女性が男性の死者に対して歌うもの。
  3. 次の部分で明かされる大ガルシアの出自はユリーツィア本に記載がない。