(2)へ
僕とマリーシャは小ガルシアの姿が完全に見えなくなるまで見送った。そして朝食を取ってから北に向けて馬を走らせた。二人だけの旅は心細くて、僕らは休憩を取らず走り続けた。クラコス川に行き会ったのは、お昼を少し回ってからだった。適当な休憩場所もないので、僕らは雪まみれの岩が転がる浅瀬を越えたところで持参したパンをかじった。
「何だか不思議だな。アシュレの居住地からトリエラの廃墟までは一人で来たけど、今ほど心細い感じはしなかったのに」
「そりゃ当然でしょ。勝手知った草原を一人で行くのと、勝手を知らない街道を私を連れて行くのでは話が違うもの」
マリーシャの声は固かった。彼女もまた、心細さを感じていたのだろう。
「アデーレやガルシアがいる状態に慣れすぎていたんだ。二人がいなくなってしまって、僕らだけでは不安になるのは仕方ないさ」
「早く行きましょう。少なくとも、街の中の宿にいる方がまだ安心できるわ」
僕らは何かに追われるようにクラコスへと向かった。でも、心細くなったり、心配したりしたことは、すべて取り越し苦労になってしまった。何となれば、クラコスにバジルダットが迎えに来ていたからだ。
夕方、僕らはクラコスに着いて最初に目にとまった宿に入った。そこで、宿泊手続きを取ろうとした時、宿の奥から聞き知った声が響いてきたのだ。
「よう、思ったより早く着いたじゃねえか」
僕はびっくりして声の主を捜した。
「まあ、おじさま!」
マリーシャがはじかれたようにバジルダットに向かって走っていった。
「どうして?」
僕はそれだけ言って次の言葉が出てこなかった。マリーシャを抱き上げて、彼はこちらに向かってきた。
「ここで待っていれば今夜にも会えるだろうってシャニィに言われて来たのさ。昨日、トリエラ廃墟でシャニィと別れたばっかりだ」
僕はびっくりして開いた口が塞がらなかった。何で到着する日にちや、泊まる場所が分かっていたんだ?
それに、なぜトリエラ廃墟なんかに立ち寄ったんだろう。
バジルダットは僕の気持ちを見透かしたらしく、にやりと笑って言った。
「なに、驚くことはないさ。宿は一軒しかない。それに、奴の予言が当たったことは山ほど見てきた。こういう時は絶対にはずさないんだよ」
「何でまた、トリエラ廃墟なんかに行ったの?」
僕にはアデーレの予言が当たったことより、二人でトリエラ廃墟に行ったことの方が不思議に思われた。
「ガルシアの墓参りさ。いわば出陣の挨拶だよ」
バジルダットはこともなげに言ったけど、マリーシャはその言葉を聞いて思わず僕の顔を見つめた。小ガルシアは嘘を言っていたわけではないのだ。
「本当にあそこにあったのね!」
マリーシャの言葉に、今度はバジルダットがびっくりしたみたいだった。
「お前たち、行きに立ち寄らなかったのか?」
彼の疑問も最もだった。普通の針路を取れば、往路にトリエラを通過することはできる。
「またまた近道を通ったんだよ」
僕の言葉を聞いて、彼は納得すると同時にあきれたみたいだった。
「とにかく、お互い詳しいことは部屋で話そう」
僕らは、バジルダットとともに客室に入った。そして、彼は僕らがいなかった間に起こったことを詳しく話してくれた。
いよいよエルダリアや南部草原の民も含めた南部連合が結成されること、将軍に任命されたのはヒジュロスさんで、アデーレとグレスドール大公はともに副将に任命されたこと等々。その他に、テイリール公ハルシエル殿の死因は不明らしいことや、突発的な病による急死と発表されたこと、それにお妃のレティシア殿は懐妊されていたことも教えてくれた。
「いろいろ厄介な問題が持ち上がってくるに違いねえ。みんな早速、男か女かとさわいでらあ。まあ、勝手にすりゃあいいさ。仕事があって飯が食えればどうだって構わん」
僕は思わず、マリーシャと顔を見合わせた。小ガルシアは期せずして厄介な問題の渦中に飛び込んでいったのだ。僕は東で見てきたことをかいつまんで説明し、さっきガルシアの息子と別れたばかりだと伝えた。
「ガルシアに息子があったなんて聞いた試しがねえ。そいつは本物か?」
バジルダットはかなりびっくりしたらしい。
「うん。アデーレが言うんだから間違いはないはずだよ。ガルシアが死んでその年に生まれているんだ。名前もガルシア。正式な結婚はしなかったらしいけれど」
「お母さんは生活に困って、赤ちゃんのガルシアをサントニールのおばあちゃんに預けたらしいの。それから、お母さんは行方知れずなんですって」
マリーシャが僕の言葉を継いで事情を説明したけど、バジルダットはまだ信用していないみたいだった。
「さっきのお墓のことも、その人から聞いたんだ。おそらく、アデーレは墓参りを兼ねて僕たちを拾ってくれるんじゃないかって言ってた」
バジルダットは硬い表情で腕組みをした。どことなく、考えをめぐらせつつ言葉を選んでいるようでもあった。
「セルクリッド陥落とトリエラ没落の間は女を作っていられるほど穏やかな日々ではなかった。シャニィ以外にまともな女がいたとは考えにくいな」
「まともな女? 二人は全くそういう関係ではなかったんじゃないの?」
僕が思わず大きな声を出したのを、バジルダットは少し小馬鹿にしたような目で見つめた。
「あの女の言うことをまともに聞いてちゃあいけない。あくまであいつの立場から見たガルシアの話なんだから。少なくとも、ガルシアはあいつ以外を嫁にもらおうとは考えていなかったと俺は見ている。だが、そのことを奴はシャニィ本人にはひた隠しにしていた」
「何で? 何で隠す必要があったのよ? そうしなければいろいろなことがもっと変わっていたに違いないわ」
マリーシャが怒ったように噛みついてきた。まあ、この世にいない人間に怒っても仕方ないんだけれど。
「そのところは俺にもよく分からねえ。あの二人の間には余人には分からない複雑な力関係があったみたいだ。まっ、ただ単にあいつが発育不良で一人前の女になるのが遅かっただけということかもしれねえが」
ひとまずこの話はそこで打ち切りになった。僕にはアデーレと大ガルシアの関係は全く分からなくなってしまったし、今もよく分からない。発言者によって言うことが千差万別だからだ。でも、バジルダットが触れた「複雑な力関係」という言葉に僕はいつまでも引っかかりを感じた。確かに、二人の間のよく分からない関係を形容する上でもってこいの言葉であるように思われる。
おそらくそれは「正鵠ぬき」に関わる何かなのだ。(僕は話半分に聞いているけれど、)彼女の予言の力に関することかもしれないし、彼女のあの特異体質のことかもしれない。それについてガルシアが弱みを握られているか、あるいは二人が何らかの秘密を共有していたかどちらかなのだろう。いずれにしてもそれは、「余人には分からない」ものなのだ。
僕らは翌早朝にクラコスを立ち、夜遅くになってようやく水沸谷に到着した。そして僕らがここに来て続けてきた亡命生活という日常へ戻ってきたのだった。
アデーレは、大ガルシアが使っていた短剣と自身の髪の毛、そしてあの骨をここに置いていった。万一の時は一緒に埋めて欲しいと言うことらしかった。でも、その話を真剣に聞いている者はいなかった。バジルダットでさえ、どこまで信じていたか疑わしい。
まあ、無理もない話だ。とっくに死んだはずの人間が生きていたと知れ渡ったばかりなのだから。でも、後から振り返れば、彼女は二度とここに戻れないかもしれないと危惧していたのだと思う。生死は別として。僕は彼女が生きている可能性はあると思っている。むしろ生きてはいるけれど僕らの前に姿を現さないことに決めているのではないか。
これでアデーレとの出会いから別れ、水沸谷からイルファレンに至る往復の旅程をすべて書き切ったわけだ。でも、はっきり言ってこれではアデーレについてすべてを語ったことにはならない。この後僕は直接アデーレや小ガルシアに会うことはなかった。だから、ここから先はすべて伝聞によって聞き知ったことでしかない。それでも、アデーレについて語るためには、事件の顛末を僕が聞き知った限りここに書き留めておくべきだと思う。
南部連合が北上し、手薄となったユリーツィアにケディア王国軍が侵攻してきたところから、話は再び始まる。
僕らが水沸谷に帰ってきた翌月、北はとうとうアシュレ川を越えてオアシスを占拠するに至った。ディラスケスを挟んで二回に渡る戦闘が行われ、一時ディラスケスを越えた北側はオアシスまで後退した。しばらく両者はにらみ合っていたが、翌月に南部連合がようやく北に向けて進軍を開始すると、北は龍の墓場まで後退した。それ以降南側がどのような手はずで北に向かっていったのか、ここには全く情報らしい情報は流れてこなかった。
僕らが耳にしたのは、ヒジュロスさんがエルダリアの旗を掲げ、アデーレはテイリールの旗を掲げていたこと、その脇には見知らぬ少年が付き従っていたということだけだった。当然、グレスドール大公はグレスドールの旗を掲げていただろうけど、彼に関する噂は全く耳に入ってこなかった。
そういうわけで、今までお話の中心にいた人たちは完全に遠くに行ってしまったわけだ。それでも、僕らの元には少しばかり戦況が入ってきた。旧セルクリッドで数度の合戦が行われたこと、龍の墓場で行われた合戦が最も激しかったこと。いずれも、戦況は悪くないらしいことが察せられる内容だった。
四月の終わりには、旧セルクリッドを完全に敵の手から奪還し、旧旧街道側の連隊から半分近くが龍の墓場の陣営に合流したという情報が伝わってきた。でも、アデーレが今どこにいるのかは全く分からなかった。
六月の中旬に、アシュレ川で決定的な勝利を収め、街道の通行権を完全に手中に収めたという情報が流れた。それと同時に、カポイル北部で帝政に対する反乱が起きていて 1、帝国はそちらの鎮圧におわれているらしいとの噂も飛び交いはじめた。この話に関しては、伝令も現地の噂としてしか知らない有様で、この時点でははっきりした情報とは言えなかったらしい。
でも、後になって分かったけれど、この反乱は冬の終わり頃には既に始まっていて、次第に規模が大きくなっていった。これに関しては、後に渦中にいた親父や兄貴たちから詳細な話が聞けた。
そして、何はともあれ、問題はここからなのだ。アシュレ川制圧の情報が入って一月近くたつと、思いがけない密使がユリーツィアからバジルダットの元にやってきた。留守を任された連隊に所属している彼の長男、ラゴレスがやって来たのである。
彼は夜遅くにこっそりと、極端に人目を警戒して帰ってきた。家に到着するなり急いでドアを閉めると、僕ら全員に黙るよう仕草で示した。
「ラゴレス、おめえ、まさか」
バジルダットは、息子が脱走してきたと思ったんだろう。僕も、まず初めにそれを考えた。
「親父、違う、脱走してきた訳じゃないんだ」
ラゴレスはあえぎながら言った。よほど急いで来たらしく、彼が口をきけたのはひとしきり荒く呼吸をしてからだった。
「南海岸に、ケディア軍が上陸した」
やがて呼吸が落ち着くと、息を潜めるようにして言った。
「何だって?」
バジルダットは、それ以上に言葉が出てこなかった。
「俺は、こっそり水沸谷に行ってアデーレに情報をつなげと命じられたんだ。これは急を要する。しかも、まだ大まっぴらにはできない」
「分かった。それで、先方の要求は何なんだ」
バジルダットは僕らの方をちらりと見て言った。
「言うまでもないことだろう。ユリーツィアは包囲されたも同然だ。あいつら、進軍を待って乗り込んできたんだ。アデーレには織り込み済みのことだったみたいだ」
僕はマリーシャと顔を見合わせた。「言うまでもないこと」が何を意味するのかよく分からなかったのだ。僕はこの時点で、ケディア側がアデーレの身柄確保にこだわっていたことを知らなかったし、その理由も知らなかった。
「アデーレは北の動向以上にケディアの動向を見ていたんだと思う。夏前までに一定の戦果が上がらなければ、一時退却も視野に入れるべきだと常々主張していた。俺たちは彼女が何を見ていたのか分からなかった」
ラゴレスは取り返しのつかないことでもしたように唇をかみしめていた。
「それは仕方がねえこった。もう察しの利いたガルシアはいないのだから。とにかく夜が明けたら伝書鳩を飛ばそう。おそらく奴のことだ、連絡係は置いているだろう。ところで、お前はこの後どうするんだ」
「急いでアデーレのもとに急行して護衛に当たれと言われている。護衛というより、やつの動向を見張ってろってことだ。こういう時に逃げ出すような奴じゃないってことは百も承知しているがな」
と、いうことは彼は北に行くのだ。そしてあわよくば、アデーレに会えるかもしれないのだ。僕はマリーシャに目配せした。
「ねえ、私たちも連れてって。私もアデーレに会いに行きたい!」
「馬鹿野郎! これは遊びじゃないんだ」
バジルダットはすごい剣幕でマリーシャを怒鳴りつけた。
「いいよ。連れてってやろうじゃないか。なあ、いいだろう親父」
ラゴレスがマリーシャの肩を持ったことには、僕は心底驚いた。でも、理由はすぐに分かった。おそらく、グレスドール大公筋の入れ知恵なのだ。万一のために、人質を連れて行けという。
「おめえ、一体誰からの命令なんだ? いいか、俺はそんな卑怯なまねは許さないぞ。こいつらを置いて、俺を連れて行け」
「そんな。おじさまそれはずるいわ」
マリーシャが駄々をこねるように抗議した。全く何が何だか分からなくなってきた。
「馬鹿だなあ。俺たちは人質にされようとしてるんだよ。それもアデーレを取り押さえるための人質だぞ。それを自分から連れてってくださいなんて」
「いいじゃない。アデーレに会えるかもしれないし、うまく行けば私たちの家族にだって会えるわ。私は行くわ。絶対連れてってもらうんだから」
僕はため息をついた。万一アデーレに見捨てられたらどうするつもりなんだろう。そもそも、そういう形でアデーレに迷惑をかけることは慎むべきだと思うのだ。
「絶対ダメだよ。僕らのせいでアデーレが引っ捕らえられたら、君はどう償いをするつもりなんだ。それにアデーレが捕まったら、僕らは用済みの存在として即座に消される心配だってあるんだ」
「そんなことはしない。いくら何でもそこまではしない」
ラゴレスが口を挟むと、怒りで拳をわなわなと震わせていたバジルダットが、息子の顔面に一発お見舞いした。
「馬鹿野郎。とうとう馬脚を現しやがったな。おい、言え、一体誰の差し金だ。お前は誰の命令で動いている」
彼は息子の胸ぐらをつかみ、前後に振り回した。退役軍人だけあって、迫力が違う。
「それは言えない。すべてが片づくまで口を割るわけにはいかない。たとえ親父でもだ。ただ、ケディアやグレスドールの差し金ではない」
そこまで言われて、バジルダットには思い当たる節があったようだった。
「分かった。そうとなったら早くいけ。荷造りをして今夜中にここを抜け出せ。明朝には伝書鳩を送る。お前らよりは先に連絡が着くだろう。二人ともいいな」
僕らはうなずいた。そしてマリーシャと互いに目を見合わせた。何かが動いている。それも、僕らの分からないところで。それでも、出来る限り僕らはことの成り行きを見守り、それに参加しなければならない。
Notes:
- 九〇二年二月一一日にノルジット北部の干拓地にいたケディア族を中心とする捕虜が蜂起し、次第に各地へ飛び火した。 ↩