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朝食の後、僕らはお弁当を受け取って潮風峠に向かった。雲一つないいい天気だ。これで完全に東ともお別れになると思うと、僕は少しばかりその晴天が恨めしかった。道は来た時以上に嶮しい印象を受けた。下った時にはあまり気にならなかった長い勾配が、上りとなると厄介なのだ。谷育ちで足の強いアデーレの馬は、小ガルシアを乗せて楽々と進んでいく。対して僕らは、それに少し距離をおいてついていくという格好になりがちだった。それでも、昼には少し早い時間に無事峠に着いた。
「これで東ともお別れね」
マリーシャは疲れているみたいで、力無く言った。
「そうだね。海や東雲湾もこれで見納めか」
僕はやって来た東の方向に目をやった。以前と同様、視界ははっきりしていて港に泊まる船も見えた。でも、何となく活気がないように見える。市が終わり、大型船の船影が消えたのだ。
「辛気くさいこと言うな。また気が向いた時に来ればいいじゃないか。早く飯にしようぜ」
小ガルシアは早々と馬を木につなぎ、弁当の包みを開いている。
確かに、お腹はすいていた。僕も馬を小さな木に繋いで小ガルシアの隣でお弁当を広げた。
「昨日は楽しかったな。ねえ、あの人たちとは随分長いつきあいなの?」
僕は何の気なしに緑目男のことを尋ねた。
「俺はともかく、姉貴とは長いつきあいみたいだ。俺は正確な名前も居所もよく知らない。ただ、姉貴が来ると忽然と姿を現すんだ。まあ、そういう人間はあそこには腐るほどいるけどな」
「え、じゃあ、ガルシアはあの人たちがどこの誰か全然知らないの?」
マリーシャはびっくりして小ガルシアの顔をのぞき込んだ。
「知るわけないだろ。姉貴の知り合いについて俺は一々名前や身元を詮索したりなんかしないさ。ただ、あの手紙を奴らに渡したのは大手柄だったと思うぜ、リェイジュン」
そんなこと言われても、どこの誰か分からない人にアデーレの手紙を渡してしまってよかったんだろうか。
「おそらく、あれは出すタイミングを見計らって出しそびれた手紙なんだ。手紙のことに関してはあの男が一番よく分かっている。何しろ、手紙仕分けや手紙書きの時には大抵姉貴のそばにいるんだ」
「そういえば、行きに赤堀谷であったあのおじさんもあの人たちの一味だったのね。一体どういう関係で集まった人たちなのかしら」
確かに、その点については全く不明と言わざるを得ない集団だ。緑目男は、どう見ても良家の子息という雰囲気を醸し出していたけれど、周囲の人間は身分も職業もよく分からない面々ばかりだった。ただ、あのこわもてのおじさんは護衛の一人かもしれないと思わせる迫力はあった。
「詮索しない方がいいし、必要以上に関わらない方が身のためだと思うぜ。ただ、俺たちの面倒を見るように、姉貴から依頼がいっていたみたいだな。俺たちの宿泊代からこの弁当代に至るまで、全部お勘定済みだった」
僕はびっくりしてマリーシャと顔を見合わせた。一体何がどうなっていて、どういう話になっているんだろう。何だかんだ言って、アデーレがいた時よりいなくなってからの方がびっくりすることが増えたような気がする。
「ガルシアは、あの人たちとアデーレがどういう関係だと思ってるの?」
マリーシャが少し遠慮がちに尋ねた。
「どういう関係なのかさっぱり分からないし、想像もつかないな。ただ、どうやら対等な関係らしいということは雰囲気から分かった。そう思わないか?」
「対等? またどうして?」
僕は意外な回答に思わず大きな声で聞き返した。
「よく一緒にいるが、互いに気を遣っているようには見えない。その点はカンラート殿下に対してとは明らかに違う。それに、姉貴はよくあの男にクラートス 1と呼びかけていた」
「あの人クラートスって名前なの? そういえば私たち、お世話になったのにお名前を伺いそびれているわ」
確かに、マリーシャの言う通りだった。僕らが名告りあったのは、あのこわもておじさんだけだ。
「クラートスは名前なんかじゃない。姉貴たちの言葉で、男性に対する呼称だよ。多分クリーダだって同じだ。雰囲気から察するに、ある一定の地位なり身分なりがある人に対してしか使われないみたいだ。俺たちが思う以上に、姉貴は偉いのかもしれない」
僕はアデーレと出会ってから今に至るまでを思い返してみたけれど、どう考えても彼女に地位や身分があるように思えなかった。多分、ただ態度がでかいから周りが遠慮してるだけだろう。強いて言えば、カンラートさんと非常に仲がいいことぐらいだ。
「じゃ、カンラート殿下とお知り合いになったのも、彼女がそれなりの身分だからってこと?」
「それは違うな。あれは殿下の物好き、いや歌好きが原因だろう。何しろ二人は親父が健在の頃から知り合いだからな」
その日の昼過ぎにはファリエンテに到着したけれど、若干休憩を取っただけで先を急いだ。それでも、ミルスナディアに着いたのは夕飯には遅い時間帯だった。夕食にありつき、空き部屋に落ち着けたのはかなり夜遅い時間で、それまでに二軒の宿で宿泊を断られた。イルファレンの市から西海岸方面へ向かう商人でどこの宿も賑わっているみたいだった。
「私たち、水沸谷から街道を使わないでここに来たのよ。本当にサントニールから二人だけで帰れるかしら」
ベッドの上に座って、マリーシャが不安そうにつぶやいた。僕には、大丈夫だと言い切れる自信はなかった。見知らぬ初めての道を使って、案内人なしに目的地にたどり着くことは、やってみなければ可能かどうかなんて分からない。
そうは言っても、行きに使った坑道をアデーレなしで通過できる保証はない。龍神高原まではいい。問題はそこから先だ。果たして道を誤らずに鳩の巣山荘にたどり着けるだろうか。その心配さえなければ、古王国坑道はこれ以上にない気楽な道だった(今考えるとおかしいのだけど、新街道より、全く人に会わない旧街道を行く方が安全に思われた。多分、それだけ僕が見知らぬ人間に対して強い警戒心を持っていたということなのだろう)。
「そんなに心配はいらないさ。道は一本でまず迷うことはない」
小ガルシアは取り越し苦労をしている僕らをややあきれたような口ぶりでなだめた。
「迷うことは心配していないわ。問題はむしろ追いはぎや強盗、人さらいの方よ。道さえ分かっていれば、坑道を通った方がそうした心配をしなくて済みそうだわ」
不思議なことに、マリーシャも僕と同じことを心配していた。結局、僕らは保守的な草原の子で、冒険にあこがれるくせに見知らぬものに対する警戒心が強いのだ。
「山荘から真っ暗谷に通じる道は意外と複雑にできているんだ。何しろ、敵の追撃を防ぐために半ば迷路のように作られているからな。俺も姉貴なしではあそこに入り込もうとは思わない。もし冬でなければ、昔王が通ったという峠越えの道をとることもできるらしい。だが、おそらく馬は乗り捨てないと峠を越えられないだろう」
僕は思わずマリーシャを見た。彼女も、ほら言ったでしょ、という目で僕を見返した。マリーシャの推理はそれほど的はずれでもなかったのだ。
「ねえ、その峠越えの道ってどこにあるの? この話もアデーレから聞いたの?」
「もちろん、姉貴以外からこんな話は聞かないさ」
僕の質問に小ガルシアは即答した。
「鳩の巣山荘の裏手から延びる小さな山道があるんだ。それを登っていくと峠に出るらしいと聞いたことはある。でも、俺は通ったことはない。確か王と巫女の一行が峠で休んだことになっていて、杖をさしたところから水が湧いてきたとかそんな伝説があった 2はずだ。それで、その峠は杖指し峠 3と呼ばれている」
「アデーレが戻ってきたら、ぜひ案内してもらいたいわね」
僕もそう思った。でも、残念ながらアデーレは二度と戻らず、僕らが杖指し峠を越えることはなかった。何しろ、この翌年には辰角ヶ岳が噴火してしまい、その辺りは危険極まりない場所になってしまったからだ。下手をしたら、その泉も火砕流の下に消えた可能性は高い。
ここから先サントニールに至るまでは、はっきり言って特筆すべきことはない。朝に宿駅を出て夕方には次の宿駅につくという行程を繰り返しただけだ。シュリージャ、エレニアータを過ぎ、サントニールに到着したのは、イルファレンを出て四日目の夕方だった。
僕らはまるで泥棒のようにこそこそとサントニールに入った。ここで街道は二つに分かれ、北上すればトリエラ、草原方向へ延びる。西へ向かえばユリーツィアを経由して西海岸へ、エルダリア地方に出ることになる。
ここでお別れと思うと、誰もがそわそわと落ち着かなかった。僕らは夕食もそこそこに部屋へと引き上げた。ここはユリーツィアは目と鼻の先で、うかつな話をするべきではないことはよく分かっていたのだ。
「二人は北上して、クラコス川を越える。クラコスは、クラコス川とディラスケス川の間に位置しているから。俺は、このままクラコス川沿いに西に進む。クラコスとディラスケスの合流地点にユリーツィアがあるから」
小ガルシアの言葉を聞いて、僕は自分が南と呼ぶ場所に思いがけず入っていたことを知った。
「じゃあ、僕らは今南にいるってことなんだね」
僕のすっとぼけた質問に、彼はさすがにあきれたみたいだった。
「殿下に頂いた地図を見てみな。トリエラまではディラスケスの北だが、それ以降の宿駅はみんな南側にある」
そう言って、小ガルシアは地図の巻物を広げた。
「南だの北だのとこだわっているのはお前たちぐらいだ。俺たちにとっちゃ北も南もないさ。セルクリッド、トリエラと相次いで没落しちゃ、南に逃れる以外ないんだから。ニダラーフェン人の多くは、クラコスかユリーツィアに大挙して逃れてきた」
僕は思わず小ガルシアを見つめた。そう言う彼の声がいつになく厳しかったから。彼は、少し語気を和らげて話を続けた。
「着の身着のままで逃れてきた奴らにとって、食っていくのは容易なことじゃなかった。男ならいい。傭兵の口や場合によっては船乗りになることもできたから。でも、亭主もなく、養ってくれるような親族もいない女は、はっきり言ってどうしようもなかった」
そうだった。ここは彼の出身地なのだ。
「ねえ、ガルシアが育った家はどこ? この近くにあるのかしら?」
マリーシャが尋ねると、小ガルシアはそっと窓辺に近づいて窓を開けた。
「暗くて見えないが、向こうの丘の麓あたりにあった。最も、お袋の親族が全員死んで、土地は山向こうの地主が取り上げたから、家そのものがどうなっているか分からない」
「何でガルシアが借地権を相続できなかったの?」
僕は何の気なしに彼に尋ねた。
「親父とお袋はちゃんとした結婚はしていない。俺はいわば私生児だ。お袋が姿を消してしまった以上、相続権のある人間はいないんだよ。結局、お袋が見つからなくて、俺は無一文で放り出された」
僕は聞いたことを後悔した。
「ごめん。不用意なことを聞いて」
「別にいいさ」
小ガルシアは開けていた窓を静かに閉めた。
「姉貴に拾われて、親父の話を聞くことができたし、どうにか吟遊詩人として生計を立てられそうになったし。まあ、生きて東に戻れればの話だがな」
小ガルシアは何気なく言ったけれど、この先戦場に出ることはかれも覚悟していたのだ。
「もしアデーレが戦場に立つことになったら、ガルシアもついて行くつもりでいるのね?」
マリーシャは尊敬とも取れるような眼差しを小ガルシアに向けた。
「そりゃあ、大ガルシアの息子ここにありと自ら名乗りを上げなくちゃならねえさ。姉貴のようには戦えないにしても、とにかく出陣することが重要なんだ。ここだけの話、俺は随分前に姉貴から戦場に立つ覚悟はあるかと念を押されていた」
それじゃあ、とっくのとうに南北の合戦が始まることは決まっていたわけだ。僕は開いた口が塞がらなかった。それをおくびにも出さずアデーレは一体何を画策していたんだろう。そもそも、バジルダットは何を交渉していたんだ?
「とにかく戦場に立って、親父の正統な後継者であることを宣言しろと。そうすれば相続権が発生するから、大ガルシアの息子として相応の待遇を受けられると言われた。実際のところそれにはあんまり興味がないが、姉貴がそう望んでいるからそうするつもりでいる」
僕は大ガルシアの父方の家系のことを思い出していた。本名ガルシア・テイリール。育ちはともかく、テイリール家の末裔は末裔なのだ。先の大戦でそのほとんどが死に絶え、つい先ほどもハルシエル公が逝去された。ここで、テイリールの名乗りを上げることは大きな意味がある。でもそれは同時に、大きな危険を冒すことかもしれない。
「つまりそれは、テイリールの流れを汲む者であると宣言することになるわけだ。今後の状況次第じゃ王様になることだってあり得るわけだ!」
僕がいささか興奮気味に話したので、マリーシャは無言で唇に人差し指を当てた。
「それが想像以上に危険な行為であることは、俺にも何となく分かる。でも、もう乗りかかった船なんだ。後戻りはしないでやるだけやってみるしかないさ」
翌朝、まだ暗いうちに小ガルシアは西へと発った。念のためと言って僕らに二泊分の宿代を置いて。僕もマリーシャも、いろいろかけるべき言葉を探していたけれど、小ガルシアは言葉少なに去っていった。今生の別れかもしれないけれど、あんまりしみったれたように別れたくなかったのだろう。
結局これ以降、小ガルシアに会うことは二度となかった。アデーレが去ってしまうと同時に、彼も忽然と姿を消してしまったのだ。アデーレという後ろ盾を失った状況では、彼の命は一銭の保証もない。そのことをアデーレは分かっていたし、小ガルシアも感じていたのだ。後に耳にした話では、彼の失踪はアデーレの勧めに従ったものだということだった。当時の僕の目から見ても、それは真っ当な選択だったし、今でもそれが当然の選択であったと思う。
ここで魔女とその弟分、小ガルシアと過ごした日々は終わる。むろんこの後も二人の噂は度々耳にしたし、僕らもしばしば噂しあった。つまり、彼女をめぐる話はまだ終わっていないのだ。それに、サントニールで小ガルシアと別れた後、僕らがどうやって水沸谷にたどり着いたか。とりあえずはそのことも書き記しておこう。