第八章 魔女の遺産(1)

第七章 王の歌 魔女の歌(3)

(2)

 僕らとアデーレの別れは、こうして全く予期しない形で訪れた。そして、僕とマリーシャに限って言えば、これ以後彼女に会うことは二度となかったのだ。だからある意味で、この魔女の物語は既に幕を閉じたことになる。僕が目にしたアデーレについては以上ですべて書ききったことになるわけだ。

でも、この時点でアデーレは確実に存命であったし、彼女に関する情報はこの後もしばらくは入り続けた。そして何より、東に捨て置かれた僕らが如何にしてフィオリアに戻ったかを、一応ここに書き記しておきたい。少なくとも、魔女死去の情報が流れた時点までは、時系列を追って話を進める。その間には、彼女不在故に起きた様々な出来事があり、直接耳に入ってきた情報も多々あった。

翌朝、僕らはとびきり早く起きた。とにかく、眼が覚めてしまったのだ。別に眠れなかった訳じゃない。ただ、不思議な緊張感があって早く眼が覚めたのだ。アデーレが僕ら一行から抜けてしまって、これからは自分たちだけで旅を続けなくてはならなかったから。

でも、早く起きたからといってとりたててする事がある訳でもなかった。荷物なんてあってないようなものだし、馬はテセウスさんのところに預けっぱなしだった。旅支度をしようにもどうしようもなかった。だから僕らは、作戦会議でも開くような気分で、今後のことを話し合った。

「午前中に出発したとして、今夜の宿はどこでとることにする?」

僕は開口一番小ガルシアに尋ねた。ニレドを南下した僕みたいに、追っ手がいる訳ではない。でも、僕らはともかく、小ガルシアはそれなりに急ぐ必要がある。

「できれば今日中に潮風峠を越えたいところだな。申し分ない天気だし」

小ガルシアは腰掛けていたベッドから立ち上がって、開け放した窓に歩み寄った。確かに、窓から見る限り潮風峠の方向に雲はかかっていない。

「馬をとばせば、赤堀谷で昼飯をとって、夜にファリエンテに到着することも不可能じゃない。ただ、結構疲れるだろう」

僕は往路の行程を思い出していた。ファリエンテから赤堀谷まで半日、赤堀谷からイルファレンまでが半日。でも、テセウスさんのところに寄り道していなければ、お昼にはイルファレンに着いていただろう。今ここから直接ファリエンテに向けて出発するなら、夕食の時間には到着できるかもしれない。

「多分、急ぐのは峠越えの後の方がいいわ。初めはゆっくりめの日程で、だんだん急ぎ足にする方が楽だと思う。私たちも、私たちの馬も」

マリーシャは余裕を見ることを主張した。

「確かにそれはそうかもしれない。峠越えの後は道は平坦で一本なわけだし」

初めからあまり急ぎすぎることについては、僕も気が進まなかった。それに、山は何が起きるか分からない。アデーレがファリエンテであっさりと行程を止めてしまったように、万全の準備と十分な条件が整わなくてはダメなんだ。

「今の時期、いい天気はそう長くは続かない。今日を逃すと、峠越えがかなり延びる可能性がある。それに、峠を越えてからは道は一本とはいえ雪道だ」

小ガルシアは先を急ぐ必要があるからなるべく早く峠を越えたいのだ。

「もしだよ、もし僕ら全員の馬がここに用意されているなら、今日中の峠越えはできると思う。でも、市外にあるテセウスさんの家まで取りに行かなくちゃならないんだ。それから出発するとなるとお昼に赤堀谷到着がやっとというところだと思う」

僕の言葉に、小ガルシアはしまったというような表情をした。

「そうだ。馬だよ。俺の乗っていく馬がないじゃないか。姉貴は当然自分の馬で西に帰ったはずだ」

こうなると、根本的なところから計画を再考しなければならない。青くなって頭を抱える小ガルシアにマリーシャはこともなげに言った。

「その点は心配いらないわ。おそらく殿下が貸してくれるでしょうし、いざとなれば相乗りすれば済む話でしょ。でも、私と相乗りということになったら、当然行程は余裕をもって組んで頂きたいわ」

マリーシャは何としてでも行程短縮を阻もうとしている。気持ちは分からなくはない。何しろ、一行の中で唯一の女だ。アデーレがいなくなった今、体力的に劣る彼女をかばう人間がいないのだ。

「とにかく、馬の状況次第ということになりそうだね」

僕はため息をついた。今の時点でみんなのペースがバラバラじゃあこの先が思いやられる。

なんだかんだいって、アデーレはなかなか優秀な先導者だったわけだ。まあ、ここにいる誰よりも旅慣れているから当然なんだけど。それに、だてに年を食っているわけじゃない。小ガルシアなんかに比べて、マリーシャの扱い方も堂に入っていた。

結局朝食の席で、アデーレが小ガルシアのために自分の馬を置いて行ったこと、馬は今使いを出して取りに向かっていることが告げられた。

「じゃあ、姉貴は龍を使って帰ったんですか?」

小ガルシアがびっくりしてカンラートさんに尋ねた。

「さあ、どうやって帰ったのかまでは分からんね。気になるなら龍たちにでも聞いてみてくれ。とにかく、彼女はユリーツィアの早馬がここに着くと同時に飛び出して行ったよ。その直後に、グレスドール大公の使いを名告るものが彼女を探しに来たらしい。行き違いだと知ると、悔しがってすぐにとって返してしまったそうだ」

カンラートさんはさもおかしそうに笑った。僕は思わずマリーシャと顔を見合わせた。何だか知らないが、大公は相当アデーレにこだわっているらしかった。

「今日は赤堀谷で一泊した方がいいだろう。どうやら、グレスドール大公が差し向けた使いは君たちの存在を知ってはいるらしい」

僕はびっくりしてカンラートさんを見つめた。僕らがグレスドール大公とかかわりを持っていることを知っているのだろうか。いや、知っていて当然だ。アデーレが話しているに違いない。向こうで今までに起こったことも、これから起こるであろうことも。

「おそらく、使者はもう市内にはいないだろう。だが、なるべく距離をとって西に向かった方がいい。妙な厄介ごとに巻き込まれてはいけないからね」

その一言で、僕らの行程はほぼ固まった。これではゆっくり時間をかけて行かざるを得ない。

「そうなると、出発は昼でも構わないわけですね。自分はあちこちに挨拶回りをするとしましょう」

あれほど急いでいたけれど、小ガルシアは腹をくくったみたいだった。

「うん。その方がいいだろう。いずれまたここに戻ってきて、歌を歌うことになるのだから。その時は私も向こうの話を聞かせてもらおう」

今にして思えば、この時点でカンラートさんはアデーレが二度と戻らないことを知っていたんだと思う。あるいは、別れの際にアデーレ本人からそう告げられていたのかもしれない。少なくとも、アデーレを連れて戻って来いとか、またいずれアデーレの歌を聞きたいとかそういう話は全く出なかった。

「君たち二人も彼について街を回ってみるといい。今は市の後の休暇期間で店は開いていないが、町並みを見る分にはこれ以上ないいい時期だ」

僕らは勧められるままに街に繰り出した。僕とマリーシャは目的もなく小ガルシアの後についていったけれど、それはそれで悪くない挨拶回りだった。訪問先では、皆一様に僕らを小ガルシアの年若い弟分と勘違いしたらしい。大抵のところで小さなおひねりをもらった。当然それは、万一の時の路銀として後々まで手をつけなかったけれど。お屋敷を出て中心街を通り、僕ら三人は港に向かった。別に事前に決めていたわけではなく、何となく皆の足が向いたのだ。何はともあれ、これでしばらく海は見納めになる訳だから。

港は早朝の漁から帰ってきた漁船で溢れていたけれど、競りが終わってしまったらしく、人影はまばらだった。まあ市の期間も終わってしまって、行商人もいなければ旅行者も少ない時期だから、水揚げも少ないんだろう。ここに来た当初は沢山見えた大型の船もすっかり姿を消していた。

小ガルシアが顔見知りの漁師たちに会いに行っている間、僕は桟橋に腰掛けて海を眺めて過ごした。マリーシャも、僕の隣りに腰掛けて見るとはなしに海を見ているみたいだった。なんだかんだ言って、船に乗ったのは貴重な経験だったとは思う。でも、結局のところ、海は僕にとって眺めるものだった。

「ここに来て、本当によかったな」

マリーシャがぽつりとつぶやいた。

僕も、その意見に異存はなかった。いろいろつらいことも不安なこともあったけれど、それがあってここに来られたのならば、それなりに元を取ったと思う。でも、これからどうなるかは全く分からない。

「きっと、いろいろな事件が起きなければ、私たち、海なんて見なかったでしょうね」

「いろいろな事件が起きて、場合によっては僕らも北に連れて行かれてたかもしれない。信じられないほど運が良かったんだよ」

僕は、どこにいるか分からない親父や兄貴たちのことを思った。草原を追われて、姉貴たちは一体何をしているんだろう。

「私、絶対忘れない。ここで見た景色はしっかり目に刻み込んでおくんだ。海の匂いも、海鳥の声も。それで、家族に会えたら、ここで見てきたものをみんな話して聞かせるつもりよ」

「そうだね。いつか草原に戻って、草原で暮らして、時折ここのことを思い出すことになるのかなあ」

「そうよ。そうに決まってる。だから今のうちにしっかり覚えておいた方がいいわ。さ、行きましょう。ガルシアが呼んでるみたい」

確かに、遠くから小ガルシアが僕らを呼ぶ声が響いてきた。街中の方に向かって走っていくマリーシャを追いながら、僕は、何度となく振り返って海を眺めた。まさか、そう何年もたたずにここに戻ってくるなんて思いもしなかったから。

「悪い悪い。待たせたな」

僕がのんびりと歩いていくと、小ガルシアは遠くから僕に向かって叫んだ。

「別にいいさ。のんびり海を見られたし」

僕は近くまで歩いて来てから彼にそういった。

「とにかく、東雲亭へ行ってみようぜ」

「えっ?」

僕は驚いて小ガルシアを見つめた。

「今さら何で東雲亭なんかに行くのさ」

「まだ旗が立っているらしいのよ」

マリーシャが困ったような顔をして答えた。

「さっき、ここですれ違った漁師に聞かれたんだ。姉貴は市内にいるかって」

「それってつまり、旗が揚がりっぱなしってこと?」

小ガルシアは肩をすくめた。

「もしかしたら、女将さんがしまい忘れてるんじゃなくて、姉貴が宿を引き払わないで飛び出していったのかもしれない」

そんなわけで、僕らはお屋敷への帰路に東雲亭に立ち寄った。でも、当然アデーレはもういなかった。宿には一応、西に行くと言い残して去っていったらしい。でも、部屋には櫛や髪留めなどが入った小物入れと未開封の手紙が十数通、そしてあきれたことに相当な額の入った巾着が放置されていたらしい。

「やれやれ。全く、しょうがねえなあ。あの女将さんが見つけなかったら、とっくに猫ばばされてたぞ」
女将さんから忘れ物を引き取って来た小ガルシアは、アデーレが去っていった時のことをいろいろ聞き出してきたみたいだった。

「一体どれぐらい入っているの?」

僕らは一階広間の隅にあるベンチの上で、人目をはばかるようにして巾着の中をあらためた。中には、珍しい形をした金貨が何枚か紛れ込んでいる。おそらく、よその大陸で流通しているものだ。

「ちょっと待ってよ。これ、かなりの金額になるわよ」

金貨を一〇枚ずつの山に分けていたマリーシャは、その量の多さに驚いている。結局、金貨が一八三枚に銀貨が一二枚、銅貨が三枚あった。

「姉貴のやつ、全財産をそっくりそのまま置き忘れていったんだ」

僕は思わずマリーシャと顔を見合わせた。もしかして、いつもこうやって忘れていくから借金がふくらんだんじゃないのか。

「それより、その手紙は? まさか私たちへの置き手紙じゃないわよね?」

小ガルシアが手紙の束の検分にかかったので、僕は大急ぎで硬貨を巾着にしまった。

「いや、多分違うな。どれもファシュルでは見かけない文字だし、手紙の差出人署名もアデーレと書かれてはいない。多分、姉貴が海外向けに書いて飛脚に渡し忘れたんだろう」

「だったら、私たちで持って行ってあげましょう」

とにかく僕らは東雲亭の女将さんにお礼とお別れを言って、外に出た。

「で、飛脚さんにはどこに行けば会えるわけ?」

僕はそもそも、手紙を出したり配達されたりしたことがなかったので、手紙運びを職業とする人間がいて、決められた料金を払えば届けてくれるという事実がよく分かっていなかった。

「あ、今の時期は多分ほとんどが休業中だ」

小ガルシアは困ったように手紙の束に目をやった。

「いいじゃない。殿下にお願いすれば」

「いくら何でも、こんなことをお願いするのは失礼じゃないか」

「大丈夫よ。きっとお手伝いさんの誰かがお使いに出るんだから」

マリーシャは悪びれもせずにそう言った。