第七章 王の歌 魔女の歌(2)

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 滞在二日目に僕は生まれて初めて船という物に乗り、海を渡った。カンラートさんの小型帆船で、東雲湾沖合の島に連れて行ってもらったのだ。でも、はっきり言っていい思い出なんて一つもないので、この件については割愛する。僕は草原の生まれで、船なんて必要ないし、たとえ何があっても、もうあんな物には二度と乗りたくはない。今でも時折ある船遊びの招待はすべて丁重にお断りをしている。

まあ、僕としてはさんざんな思い出だけど一つだけ特筆すべきことがある。今回の船遊びにアデーレは同行しなかった。小ガルシアに言わせると、アデーレは彼や同行の友人たちを捲く一つの手段として船遊びを利用しているらしい。

「姉貴は今頃、同族の人間と接触しに行ってるんだよ」

小ガルシアは何となく寂しそうにぽつりとつぶやいた。僕が船酔いでのびてしまい、別邸のテラスにある寝椅子に横たわっている時のことだった。マリーシャは波打ち際でカンラートさんのお子さんたちと遊んでいて、僕らは二人きりだった。

「姉貴に会って間もない頃は、俺も何回か同席した。何を話しているのか分からないから、姉貴は俺が聞いていても気にしなかったんだろう」

僕は小ガルシアの話の要点がつかめなかった。

「それじゃあ、つまらないじゃないか。アデーレはガルシアを退屈させるといけないから、こうしてわざわざ船遊びの時に会いに行くことにしたんだろう」

「いや、そんなんじゃないさ。本当は聞かれてまずいことを話してたんだよ」

僕は思わず起きあがった。

「聞かれてまずいこと?」

「ああ。知らない言葉だって、しばらく聞いてりゃなんとなく内容が分かるもんだ。それに、地名なんかは聴き取れるだろう」

「それで、一体何を話していたんだい?」

小ガルシアが肝心なことを口に出さないので、僕はもどかしくなってその内容を話すように促した。

「詳しくは分からない。ただ、聞き取れた言葉から俺が推測したことに過ぎない」

僕は少しいらいらしてきた。

「ああ、それは分かるよ。鵜呑みにはしないさ」

「姉貴は、おそらく間者なんだろうと思う」

僕は、考えてもみなかった可能性を突きつけられて、一瞬頭が真っ白になった。でも、よくよく冷静に考えれば、間者として彼女以上の適任者はいない。

「どうしてさ?」

「話に出てくるのが、北の地名ばかりなんだ。幾度となく物品や金銭のやりとりがあるし、地図を広げて話し込んでいることも何度もあった」

僕が聞きたいのはそんなことではなかった。具体的にどんなことが話し合われていたかだ。

「アデーレが間者かどうかは置いておいて、一体どんな内容だと推測できたんだい?」

「ジルベリー、ダキア、ニレド、グレスドールという地名。それに雷鳴り、霧、かんかん照りとか天気にまつわる言葉がしきりに使われていた。他にも、テイリールとか。あと、地名なのか人名なのか判然としないんだが、ボレウスとかゴディなんて言葉もよく出ていた。そうだな、明らかに人名と分かったのはイグナシウス。多分、元グレスドール大公だろう。他にもハルシエルという名前が挙がっていた」

僕は話が進むにつれて、聞いたことを後悔した。アデーレは知っていたのだ!

「おそらく、随分前から北がニレドに攻め入ることを姉貴はつかんでいた。下手をすれば正確な日取りも知っていたはずだ。そこに一枚グレスドール大公も噛んでいるかもしれない。何てったって、グレスドール大公の妹は現在の北帝のお妃なんだから。天気について話が出ているのは、どんな季節のどういう状況で戦をするかによって作戦とか陣形が変わってくるからじゃないか」

そうなると、僕が偶然廃墟でアデーレに出くわしたことも説明がつくわけだ。

「つまり、アデーレは北側の人間な訳か」

僕は騙され、裏切られていたことも知らずに、彼女についてきたのだと思った。

「いや、中央側の人間だろう」

小ガルシアは即答したけれど、僕は中央の意味が分からなかった。

「は? 北と南の間ってこと?」

「つまり、中央大陸側さ。結局、北と最も険悪な状態にあるのは中央大陸だ。東大陸内の争いに便乗して北側の情報を引き出しているんだろう」

「つまり、北は僕らと共通の敵になるわけだね」

「そういうこと」

この話はここで打ち切りになった。推測の上に推測を重ねても事実は分からないからと小ガルシアが打ち切ったのだ。とにもかくにも、僕は自分がアデーレに欺かれているわけではないと知って安心したのだ。でも、果たして小ガルシアの推測がどこまで正しかったのか今に至っても分からない。最終的に、アデーレを捕らえて連行していったのは中央大陸のケディア王国軍だった。

もし彼女が中央大陸の間者だったなら、功績が認められてそれなりに安泰な生活を送っているかもしれない。あるいは、用が済んだからという理由で、抹殺されているかもしれない。もし、中央大陸の間者でない場合も、消されている可能性は高い。

いずれにしても、あらゆることはうやむやなまま現在に至っており、これからも、彼女が生きて戻って来ない限りずっとうやむやなままに違いない。結局のところ、生死も含め彼女の末路がどんなものだったか分からないことにすべての原因があるのだ。

島の別邸には一晩だけ泊まった。翌日の早朝に出発したので、昼前にはもう東雲湾に到着した。行きに比べて波が穏やかだったせいか、僕の船酔いは幸いにも比較的軽度で済んでいた。

そうした余裕もあって、到着早々僕は小ガルシアと一緒に東雲亭へ向かった。当然、別行動中のアデーレを呼びに行くためだ。カンラートさんはアデーレをもう一晩自邸に泊めて歌わせるつもりでいるらしく、アデーレのところに向かおうとする僕らを快く送り出してくれた。

市が終わって閑散としている大通りを南に向かいながら、僕らは東雲亭を目指してのんびりと歩いた。あれだけのにぎわいが嘘だったかのように、町は人数が減って静かになっている。通りをゆっくりと横切る猫。四五人で組になって、日だまりで遊んでいる小さな子どもたちの群。

「何だか調子が狂うよ。一昨日とは全然別の街みたいだ」

僕は無言のまま歩く小ガルシアに話しかけた。これが普段の姿なんだろうけど、まるで別の街に来てしまったような変な錯覚に襲われる。

「市が終われば一〇日間の休暇期間なんだ。のんびりするのも無理はないさ。今行っても姉貴は眠りこけてるだろうよ」

いつになく張りのない声だったので、僕は小ガルシアの顔をそっと盗み見た。視線の先には、東雲亭の屋根に掲げられた旗がある。

「ねえ、いつもアデーレが来るとあの旗が揚がるの?」

僕は旗の件については半信半疑だったので、改めて聞いてみた。

「ああ、俺もあれを合図にあそこに行くんだ。何たって姉貴は事前に連絡なんか寄こさないからな」

「それはフィオリアでも同じだよ」

「そうか」

僕は声を立てて笑ったけど、小ガルシアは笑おうとしなかった。

僕には、彼の様子がおかしい理由が何となく分かっていた。

「ガルシアもフィオリアに来るんだろ」

小ガルシアは一瞬びくっとしたので、僕は我が意を得たりと思った。アデーレについて来るように言われたけれど、本当のところここを離れるのが不安だったに違いない。

「姉貴に聞いたのか?」

僕は首を横に振った。

「カンラート殿下からだよ。二人そろっていなくなることを残念がっていた」

「そうか。正直言ってさ、俺はここを離れたくないんだ」

「わかるよ」僕は即答した。「誰だって住み慣れた所を離れるのはいやなものさ」

東雲亭に着いたので、僕らの話はそこで打ち切りになった。僕らは中に入り、小ガルシアは案内係とおぼしき男にアデーレのいる部屋を聞き出しに行った。

「二階の東の隅の部屋らしい」

そういわれても僕にはさっぱり分からないので、黙って小ガルシアの後に従った。石造りの大きな階段を上り、いくつかの角を曲がって廊下の突き当たりに出た。

「多分、ここのはずだ」
小ガルシアはそういって止まったけれど、ノックせずにドアの前で耳を澄ませている。僕も黙っていた。何だか、扉の向こうから耳慣れない声が聞こえてくるのだ。何だか、ドアを叩くことははばかられる雰囲気がした。

「姉貴! 起きてるか?」

小ガルシアはドアに向かって大声で尋ねた。すぐにドアの内側で鍵を回す音が立ち、内側からドアが開いた。

「ああ、君たちですか。こんにちは」

顔を出したのはあの時の緑眼の男だった。僕は意外の感に打たれると同時に、アデーレが部屋の奥にいることを確信した。

「アデーレ忙しい。君たち、中で少し待っていてくれますか?」

僕らは黙ってうなずき、緑目男について部屋の中に入った。

中にいたのはアデーレだけではなかった。いつか赤堀谷で会ったこわもての大男、見知らぬ中央大陸人の男、緑目男のお付きと思われる男もいる。彼らに見守られる中、アデーレは手紙の山を驚くような速さで仕分けしていた。

「ああ、もう帰ってきたのか」

アデーレは手を休めずに僕らに話しかけた。いつも思うけど、本当に器用な人間だ。

「忙しいなら、出直してくるぜ」

小ガルシアが遠慮がちに言ったけれど、アデーレはかぶりを振った。

「すぐに片づける。何なら、下の食堂で好きな物を食べてきても構わないよ」

「いや、カンラートの殿下に昼食はみんなでとお誘い頂いている。迷惑でないなら、ここで待つさ」

小ガルシアは部屋の隅にあるソファーに腰掛けると、僕にも座るように手招きをした。僕は小ガルシアの横に腰掛けて、アデーレの仕分け作業を見守った。

小ガルシアが黙ると、待っていたとばかりに中央大陸人の男が話し始めた。アデーレは時々何か言い返しつつも、手を休めようとはしなかった。僕には何を言っているのかさっぱり分からなかったけど、傍らにいた小ガルシアはおおよそのことが分かっていたのではないかと思う。二人の会話を固唾をのんで見守っていた。男はしきりに「クリーダ」という言葉を連発していて、口調には懇願めいた響きがあった。

やがて仕分け作業が一段落すると、アデーレは三つある手紙の山の一つを暖炉の中に投じてしまった!

「何で燃やしちゃうんだろう?」

僕が思わず尋ねると、小ガルシアは苦笑いを浮かべて小声で言った。

「借金の督促状らしいぜ」

そうこうしているうちに、アデーレはおもむろに物書き机に腰掛けて便箋にペンを走らせ始めた。あっという間に便箋三枚分を書き上げると、そのうちの二枚を封筒に入れて中央大陸人に渡した。その後もしばらく二人の間で押し問答が続いたけど、男は諦めて部屋を出て行ったみたいだった。

中央大陸人が出て行くと、今度はこわもて大男と緑目男、アデーレの三人で話が始まった。こわもて男も緑目男のお付きも、話しながら二山ある手紙を手分けして開封している。そしてそれぞれを到着順に並べているらしい。アデーレはと言うと、便箋にもう一通の手紙をしたためているらしく、机にかじりついたままだった。

「いつものことなんだ」

驚きと共にこの光景を眺めていた僕は、小ガルシアがぼそっとつぶやいた一言に驚いて振り返った。

「久しぶりにどこからともなくここへ帰って来る。世界各地から転送された手紙が貯まっている。それを宛名ごとに分類して必要なものにだけ返事を書く。ここ最近続いている光景だよ。さすがに初めて見た時は驚いたけど、俺は慣れっこになっちまった」

確かに、アデーレは手慣れた手つきで手紙を仕分けて返事を書いている。

既にもう一通書き終わったらしく、アデーレはペンを置いて手紙を小さく畳んで丸めている。

「あれは伝書鳩用の手紙だ。一体どこへ送っているのか俺には分からん。多分、知らない方がいい内容のものだろう」

確かに、開いた窓の外にはさっきから一羽の鳩が見え隠れしている。アデーレが窓に近づくと、鳩は室内に入って来て彼女の肩に止まった。

「それにしても、ここまで堂々と手紙を出す間者なんているんだろうか」

「よく考えてみろよ。姉貴のやることだぜ」

「まあね」

僕は取りあえず同意はしたけれど、アデーレが本当にそうしたことをするなら、誰にも気取られずにやったと思う。おそらく、この日合計で十数通出した手紙は、どれも他愛のないものだったに違いない。そもそもこの日部屋には多くの人間がいたわけで、彼らが全員そうした関係の協力者とは到底思えない。

結局僕らがカンラート邸に戻ったのは、お昼には遅く、夕食には早い時間だった。

僕と小ガルシアはマリーシャがいる部屋に通されて、お茶とお菓子をごちそうになった。アデーレは後で行くと言って姿を消したっきり姿を見せなかった。多分お屋敷のどこかにはいたんだろう。きょろきょろ探し回る事なんて出来ないから、僕らは三人で色々な事話して過ごした。というより、不機嫌なマリーシャをなだめる事で時間をつぶした。

「全く、何でこんなに戻りが遅いのよ」

マリーシャは怒り心頭だった。原因はアデーレなんだけど、本人がいないから責めを負うのは当然僕らになるわけだ。

「仕方がないだろう。姉貴だって忙しいんだ」

小ガルシアはめんどくさそうに言って取り合おうとしなかった。

「せめてどっちかでも戻ってきて欲しかったわ。わたし一人だけ殿下のご家族と食卓を共にしたのよ」

まあ気持ちは分からなくはない。でも、ちゃんとご飯にありつけたんだからそれはそれでいいじゃないかと思う。

「グレスドール大公と一緒にご飯を食べるよりはましだと思う。それに、僕らはお昼ご飯自体食べられなかったんだから」

そう、だからお茶と一緒に出てきたぶ厚い林檎のパイは非常にありがたくおいしく頂いた。

「アデーレと一緒に過ごしたんだからいいじゃない。ねえ、どこか連れてってもらったの?」

僕は小ガルシアと顔を見合わせた。

「何にもないよ。アデーレは手紙書きで忙しくて僕らになんか構ってくれなかったんだから」

「手紙書き?」

マリーシャが話に乗ってきたので、僕は胸をなで下ろした。これで彼女の詰問も一段落するだろう。

「いつものことさ。ここを留守にしてる間に貯まった手紙を整理するんだよ」

「そう、百通近くある手紙を、まずは宛名ごとに仕分けるんだ。なかなか見物だったよ」

僕は小ガルシアの話を継いだ。

「仕分けが終わったら、次に借金の督促状を暖炉に投げ込む。これで、手紙の半分近くが無くなるんだ」

小ガルシアは笑いながら僕の話を引き取った。

「借金の督促状? あの人借金するほど何かにお金を使っているの?」

マリーシャにも意外だったらしく、手紙仕分け工程の話はここで終わった。

「ねえ、それって本当なの?」

実は僕にも信じられなかった。まず、彼女はお金に困るような生活をしていないし、何につけてもお金をかけるような事はしていない。

「さあ、俺にだってよく分からないよ」

「えっ?」

僕とマリーシャが小ガルシアを見つめたので、彼は決まり悪そうに頭をかいた。

「俺は姉貴と違って文盲だし、言葉だっていくつも話せる訳じゃない。ただ、何で手紙の山を燃やしちゃうんだって姉貴に聞いたら、姉貴がそう言っただけだ。もしかしたら全く違う内容の手紙なのかもしれない」
確かにそれは充分あり得る話だ。それがアデーレの元に届いている事自体を隠さなければならない手紙かもしれない。

「それってきっと嘘だわ。別れた男がしつこく書き送ってくる恋文か何かなのよ」

「いや、それはあり得ないと思う」

その点では、僕と小ガルシアの意見は一致した。

「だって中身を読まずに燃やしちゃうんでしょ。読みたくない内容の手紙といったら、それに尽きると思うの」

マリーシャは恋文にこだわった。彼女はとかく色事とアデーレを結びつけたがるけど、馬にドレスを着せるぐらい似合わない話だ。

「それだったら、借金の督促状のほうがまだあり得そうだ。姉貴には全くそうした気配がない」

「僕もそう思う。宛名を見ただけで内容が分かる手紙といったらそれぐらいしかないよ。そうでなかったら、何か秘密の手紙なんだ。彼女のところにそれが届いている事自体を隠さなければならない手紙とか」

「いや、それはないよ」

小ガルシアが僕の秘密の手紙説に異議を唱えた。

「だって、もし何らかの秘密の手紙なら、普通目を通してから燃やすだろう」

確かにそれはそうだった。

「百歩譲っても」と僕は言った。「恋文はないと思う。あのアデーレがそんな陰気でしつこそうな男に自分の連絡先を教えると思う?」

「確かにそれはなさそうね」

そういうわけで、燃えた手紙はやっぱり借金の督促状ということになった。本当は違うのかもしれないけれど。