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カンラート屋敷に僕が初めに抱いた印象は「大きい」ということだった。あらゆる物が通常のサイズより大きいといっても過言ではない。外門は縦にも横にも大きかったし、門から屋敷までの距離も長く、正面玄関の扉も、半端じゃなく大きかった。
僕らは招待杖を持ってきた男の案内に従って屋敷に入った。天井の高い廊下を通って広間にはいると、広間の奥から大柄な男がゆっくりとこちらに歩いてきた。真っ直ぐアデーレのもとにやってくると、親しげに彼女を抱擁した。いや、ただ単に握手を交わしただけかもしれない。二人は何か二、三言葉を交わしたけれど、何を話したのかさっぱり分からなかった。男は小ガルシアと握手を交わすと、僕とマリーシャの頭をなでた。
僕は立派な屋敷に招かれて、完全にあがっていた。何が何だか分からなくなっていたし、今もあまりはっきりと思い出せない。確か彼は僕らのために用意してくれた席まで案内してくれたと思う。とにかく広間の中の一番いい席だった。席に着いてからようやく、僕はその人こそがカンラート家当主であるということに気がついたのだった。
それが僕とカンラートさんとの出会いだった。彼の名はファルギウス・カンラート 1(正式にはもっと長い名前なんだけど、残念ながら今に至るまで彼の正式な名前を覚えられない)。事実上のイルファレンの支配者で、当時はまだ三〇代後半だった。僕はこの後様々な紆余曲折を経てカンラートさんのお世話になり、今もまだお世話になっている。そして同時に僕は彼の「歌仲間」の一人でもある。そんなわけで、本当なら「上様」とか「殿下」とでも呼ばなくてはいけないんだろうけど、ここではただ単に「カンラートさん」と記しておく。
広間の中央にはちょっとした舞台のような壇があり、その前に簀の子状の箱がおかれている。初め何のためにあるのかさっぱり分からなかったけど、その用途は小ガルシアが杖を差し込んだことで合点がいった。杖立てなのだ。
僕らはその小さな舞台に一番近いテーブルに腰掛けた。カンラートさん、奥方のルクリースさん、アデーレ、僕とマリーシャ。それぞれのテーブルに飲み物が行き渡ると、カンラートさんが立ち上がって(多分)乾杯の音頭をとった。舞台上の小ガルシアは、カンラートさんからお酒の入った杯を受け取るとそれを一気に飲み干してしまった。
「これから歌うって時に、大丈夫なの?」
マリーシャが青ざめた顔をしてアデーレをつついたのも無理はない。小ガルシアは緊張と酔いのせいか顔を真っ赤にしている。
「注がれた酒を飲み干すことが、一種の作法なんだ。ご招待に与り、これからご依頼のとおり歌いますという承諾を表しているんだ。心配いらない。強い酒ではないし、大して…」
アデーレはカンラートさんに促されて杯に酒を受けたので話が尻切れとんぼになった。僕とマリーシャは給仕係からリンゴの果汁を頂いた。琥珀色の綺麗な果汁が杯に注がれると、何とも言えず甘酸っぱい香りがあたりに広がり始める。
「柱ヶ丘産のリンゴだ。糖度が高くて林檎の中じゃ特上の味だよ」
五人で杯を打ち合わせ、それぞれ中身を空にする。確かに、一気に飲み干すのがもったいないくらいおいしい。
突然広間のさざめきがぴたりと止んだ。アデーレが舞台の下に進み出たのだ。小ガルシアが持っている杯を受け取ると、大音声で何かを話し始めた。いよいよはじまるのだ。「王の歌」が。割れるような拍手が響き渡ると、舞台を挟んで反対側にあるテーブルからなんとテセウスさんが現れた。あの寂れた牧場で会った時とは打って変わって、緑色の立派な衣装に身を包んでいる。
「ちょっとあの人!」
その驚きはマリーシャも同様だったらしく、彼女は舞台の方を指さしたまま硬直している。僕もびっくりしたけれど、それ以上に心外だったのは今回、アデーレが全く歌に参加しなかったことだ。アデーレは末席にいた招待杖運搬役の男を舞台に引っ張ってくると、自分はさっさとテーブルに座ってしまった。
「まさか、アデーレ歌わないの?」
僕は驚き半分、がっかり半分な口調で彼女を問いただした。
「今日は歌わないよ。あいつの初舞台なんだ。私が出てったら意味が無いじゃないか」
僕はなおも食い下がろうとしたのだけど、広間が突然静まり返ってしまったので言葉を飲み込んだ。杖運搬役の男が、切り口上のようなものを声高に叫び始めた。
「あれは何と言っているの? そもそも、何で三人も歌い手がいるの?」
マリーシャが声を潜めてアデーレに聞いている。
「本歌と添え歌、それに掛け歌 2を歌う人間がいるんだ。今歌っているのは掛け歌。すべての歌の先駆けをなす重要な役回りで、いわば狂言廻しのような存在だ。『ここにおわします王の中の王、緑なすニル・クラスティーより朝日照るイル・フィアレンに来たったカンラート王とその民の遍歴を、上つ代に九頭龍の神が成り、天の常柱が立ちし時より龍の腹をくぐりて柱ヶ丘に至るまで語り説きたてまつれ』言ってみれば、王の立場から歌い手に命じる形の前口上だ。そしてここで」
アデーレは言葉を切ると小ガルシアの歌に耳を傾けるように促した。僕は視線を小ガルシアに移し、その言葉に耳を傾けたけれど、内容はさっぱり分からない。唯一聴き取れたのはイルファレンという言葉だけだった。
「ここで、さっき言われた前口上をおうむ返しに繰り返して『語り説きたてまつる』と宣言する。そしてここからが本題に入る」
確かに、ここで小ガルシアが抱えていた弦がかき鳴らされ始めた。それを追うようによく通る声が辺りに響き始める。何とも言えぬ緊張感を持った、荘重な曲だ。小ガルシアの声に応じるようにテセウスさんも歌い始める。二人の声が響き合い、周囲の空気は完全にその支配下におかれた。僕は、時が止まったような錯覚を覚えた。
どれぐらいたっただろう。再び口上のような添え歌が歌い上げられると、辺りを包んでいた緊張感はぷっつりと途切れた。この時を待っていたとばかりに、給仕係がテーブル上に一斉に料理を並べ始める。僕はその変わりように半ばあっけにとられた。
「堅苦しいのは最初だけだ。初めの一節を歌い終われば、後は無礼講のようなもんだ。気にせずどんどん食べればいい」
アデーレは早速鶏の薫製を手に取っている。僕も促されるままに鶏の薫製を皿からとった。
「ねえ、さっきの歌と今の歌、何が違うの?」
マリーシャがアデーレに尋ねるのを見て、僕はまた始まったと思った。彼女は何から何まで知らないと気が済まないのだ。
「さっきまでは、言ってみれば神さまに関するお話だった。今は王様の話。だから食べながら聞いて構わない。そういう王様ご本人の方針なんだよ。まあ、ご本人が食べたくてしょうがないんだからこれでいいんだよ。ね?」
最後の一言は彼女のとなりに座っているカンラートさんへの念押しだった。
「ま、そういうこと」
カンラートさんがそう言ってにっこり笑ったので、僕は椅子から転げ落ちそうになった。なんだよ。僕たちの言葉分かってたんじゃないか。
驚く僕らを見て、アデーレと二人でお腹を抱えて笑っている。アデーレとカンラートさんの話は僕らには分からないけど、アデーレと僕らのあいだの話は内容が筒抜けなわけだ。
「殿下は人が悪い。こういう時は知らぬ顔で通してくださればいいのに」
「ははは。むしろ人がいいと言って欲しいね。分かっているということを教えてあげたんだから」
二人は僕らの驚きようがよほどおかしかったらしく、まだ笑っている。でも、はっきり言って驚いて当然だと思う。だって潮風峠を越えてこの方、流暢にニレド言葉を話す人間なんて皆無に等しかった。フィオリア出身の小ガルシアは例外として、あとは東雲亭で一緒になった片言の緑目男だけだ。
でも、一体全体何で話せるんだろう。身分が身分なんだから、商用で西に行くなんて考えられない。親戚がいるなんてもっと考えられない。結局この時は、カンラートさんがなぜニレド言葉を話せるのかは最後まで分からなかった。
「ねえ、せっかくの歌なのに、私たちだけ意味が分からないなんてつまらない。私たちの言葉で説明してよ」
マリーシャが半ばむくれたようにかみついた。笑いの種にされたのがしゃくに障ったのだろう。
「アデーレ、君の翻訳能力を使ういい機会だ。彼らに訳してあげるといい」
カンラートさんはそう言って、アデーレの杯になみなみと酒を注いだ。
「全く、博士にそんなことを言われても、嫌味にしか聞こえませんよ」
そうは言っても、彼女はまんざらではないらしい。まるで歌い手が指名を受けた時のように、注がれた酒を一気に飲み干した。
「よし、この節が終わってからにしよう。聴きながらどんどん食べるんだよ」
やがて歌に一区切りがつき、再び掛け歌が歌い上げられた。
僕はマリーシャと違って歌の内容にはそれほど興味はなかった。今にして思えば、非常にもったいないことをしたと思うのだけど、アデーレのニレド語訳「王の歌」はほとんど聞いていなかった。まあこれに関しては、カンラートさんと僕による共訳を作ったから、今となっては別にどうでもいい。この日ここで歌われた内容はいつもの「王の歌」と全く変わらないはずだし、必要があればそちらを見てもらえば済む話だ。
とにかく僕はひたすら食べることに集中した。魔女が柱を倒そうと、王様が発狂しようと、月が落っこちてこようと僕の食欲には及ばない。僕は鶏の薫製を二つと、きのこ入りオムレツ、ジャガイモといんげんのサラダ、茄子の肉詰め、白身魚のフライ、豆のスープを平らげ、最後に出された桃とリンゴの甘露煮に取りかかった。さすがに僕の鋼の食欲もとうとう制圧されてしまって、一皿食べきるのに非常に苦労した。
満腹になってアデーレのニレド語訳「王の歌」に耳を傾けたけれど、いつの時代の誰について語っているのかよく分からない。当時は全く聞いたことのない物語だった。
「シャータルの 射しさつ矢 天飛ぶ矢 風切り矢 大鹿逸れ 小鹿を逸れ 空を切りて 御子にあたりぬ カリャーンの 胸坂通り 玉の緒の 息は絶えぬ 返し矢恐るべし 返し矢恐るべし」
今ならこれが何の話か僕にも即答できる。「シャータルの返し矢」あるいは「シャータルとカリャーン」と呼ばれている歌の一節だ。かつてシャタールの国はカリャーンの父ラムド王によって滅ぼされた。王はシャータルの母を娶り、連れ子であったシャータルを息子として迎え入れる。成長したシャータルは狩りの最中に王太子であり、義理の兄にあたるカリャーンを誤って射殺してしまう。その矢はシャータルが父の遺体から形見として引き抜いた矢だった。そこから、敵に向かって放った矢は射返されると必ず災いを呼ぶと恐れられるようになった。ざっとそんな話だ。ラムド王はシャータルを南に追放し、王位を弟に譲ると自身も放浪の旅に出てしまった。
物語から脱落した二人をよそに、時代は変わり王位は移る。登場人物は変わるけど、物語の内容は大同小異。時代の転換点が訪れない限り、同じことの繰り返しだ。
僕は話に飽きて周囲を見渡した。ふと隣を見ると、マリーシャはいつも通り船を漕いでいる。歌を訳すことに神経を集中させているらしく、アデーレは全く気づいていなかった。僕は二人のうちどちらをつつくべきか迷ったけれど、マリーシャの様子に気づいたカンラートさんがアデーレを止めてくれた。
「やれやれ、掛け歌の歌い手が寝てしまったんじゃ話にならないね」
苦笑いをして椅子にもたれると、アデーレはマリーシャのリンゴ果汁を飲み干した。
「部屋を用意させてある。連れてってベッドに寝かしてあげるんだな」
「お心遣いいただき、恐縮です。」
アデーレはマリーシャを軽々と抱き上げると、一礼して広間の外にそっと姿を消した。
「ねえ、リェイジュン。」
突然カンラートさんに話しかけられて、僕はひどくびっくりした。思わず姿勢を正したほどだった。
「アデーレの紹介は間違っていないね。僕の聞き間違いでなければ、君はリェイジュン。北ニレドの出身だ」
その通りだったので、僕はうなずいた。
「そうです。間違いありません」
「これから君は、おそらくアデーレとともに西へ、ひとまずフィオリアに帰るだろう」
おそらくそうなるはずだ。僕は黙ってうなずいた。
「フィオリアに着いたら、しばらくはニレドに足を踏み入れない方がいい。それから」
カンラートさんは少しためらいがちに言葉を切った。それは僕にも理解できる。少なくとも、僕らがニレドにおける生活権を確実に回復するまで、あそこに足を踏み入れるのは得策ではない。
「それから?」
僕はカンラートさんが言いにくそうにしていることの方がむしろ気になった。
「潮風峠を越えたら、つまりフィオリアに入ったら、出来るだけアデーレとは離れて行動した方がいい」
「どうしてです?」
誰が抜けてもアデーレ抜きということだけは考えられなかった。路銀だけじゃない。道について、言葉について、旅に必要なことはすべてアデーレの知識と経験に頼ってきた。彼女が抜けてしまっては僕らはどこにも行けなくなってしまう。
「彼女の存在は危険だ。とりわけ、フィオリアにおいてはね。彼女の隣にいるためには、いつどこで誰に狙われてもいいという覚悟が必要だ」
「つまり、それは北に関係することですね」
僕は声を潜めて尋ねた。
「君は非常に頭がいい。しかし北と争っているのは南だけではない。ここ東だってそうだし、中央も絡んでいる。そしていずれの国も、彼女の動きには注目している。そのことは彼女自身が誰よりもよく心得ている」
カンラートさんは言葉を切ると杯の酒を飲み干した。僕は黙って次の言葉を待った。彼はアデーレの敵というわけではない。でも彼女の存在を客観的に捉えていて、時と場合によっては彼女を切り捨てることも辞さない強さと冷静さを持ち合わせている。その時僕は、カンラートさんをそういう人物として捉えた。
結局それが誤解であったと分かったのは、アデーレが姿を消してから五年後(東暦一二〇五年)に再会を果たしてからだった。おそらく、アデーレが姿を消したことを最も残念に思ったのは、カンラートさんだったに違いない。
「おそらく、行き以上に帰りが危険であることを彼女は熟知しているだろう。そうでなければ、あの弟分を連れて帰るようなまねはしない」
僕は驚いて小ガルシアを見やった。
「彼もフィオリアに来るんですか?」
「つい先ほど、弟子ともどもイルファレンを辞すると挨拶されたよ。悪いことは言わない。潮風峠を越えたら、アデーレから離れるんだ。おそらく、君たちの面倒は小ガルシアが見てくれるだろう。そして、ここからが重要だ。もし、何らかの事情でニレドを離れることになったら、まず真っ先に僕のところへ来なさい。いいね」
アデーレが戻ってきたので、僕とカンラートさんとの秘密の会談はここで終わった。そして僕もマリーシャ同様ベッドに入った。今考えても、カンラートさんは何から何まで見透かしていたとしか思えない。すべてはびっくりするぐらい彼の予言通りになった。
まあ、ここであれこれ言っても始まらない。これは物語がすべて語り終わった後の物語に属することなので、一切合切後で述べることにする。とにかく今はアデーレの物語を語り始め、語っている最中なのだ。