第六章 東都イルファレン(3)

(2)

第七章 王の歌 魔女の歌(1)

 一階の食堂は通りに面した部分の壁が完全に取り外されていた。外に並べられたテーブルまで完全に満席で、通りにはたくさんの人だかりができている。

「君たち、こっち、こっち」

不意に片言のニレド言葉が飛んできたので、僕らはびっくりして声のする方を振り返った。

「どうぞ。ここあいてる」

「ど、どうする?」

僕は思わずマリーシャに聞いた。だって、そのテーブルだけ、周囲から奇妙に浮き上がっている。

「い、行くしかないんじゃない。みんなアデーレのお知り合いよ。絶対」

 声の主は年の頃一七、八と思われる男だった。そのテーブルの中では飛び抜けて上等な身なりをしている。どう見てもお忍びでやって来た良家の貴公子だ。豪商の息子という感じではない。身なりだけでなく雰囲気まで上等なのだ。茶色い髪で緑色の目をしてるから、少なくとも中央大陸人ではない。でも彼の両隣にいる二人の男を除けば、そのテーブルは全員中央大陸人、すなわちアデーレと同族の人間ばかりで占められていた。

 僕は言われたとおり黙ってその緑目男の正面に座った。

「君たち幸運です。クリーダの歌、簡単に聞けない。クリーダは、いつも、ここにいない。だから、たくさんの人が、聞きに来ます」

緑目男の話は残念だけど僕には全く当てはまらない。幸か不幸か僕はアデーレとずっと行動をともにしてきた。でも、ここでは多くの人が彼女が歌いに来るのを待っているのだろう。僕は黙ってうなずいた。

「お腹すいていますか? 何食べる?」

「薫製の鶏肉」

「きのこのスープ」

僕とマリーシャはほぼ同時に答えた。そして互いの顔を見て思わず笑い出してしまった。東に入ってから本当に食べたいものを食べていなかったのだ。ただ出された食事を平らげるだけだった。そりゃあ、出されたものは決してまずくはない。でも、あの山荘で食べた料理以上においしいものはなかったと思う。それはマリーシャにしたって同じだったのだ。

 緑目男は右隣にいる男(間違いなくお付きだろう)と何か小声でやりとりしている。お付きの男は注文をとりに来た女の人と二言三言話してアデーレを指さした。

「君たち、好きな歌は何ですか? クリーダお願いすれば歌います」

 僕は思わずアデーレの方を見た。今歌っているのは小ガルシアで、曲は王の歌ではない。アデーレはちょっと下がったところで、黙って小ガルシアの様子を見ている。緑目男の話が本当なら、注文があった歌を歌っているのだ。

「歌注文する時、食べるものも注文する。これが約束。だから二人は歌注文できます」

そんなこと言われても、すぐに思いつかない。そもそも、曲名がわからない歌が多すぎる。

「僕は王の歌しか知りませんよ」

それを聞くと緑目男は目を丸くした。そして鷹揚に手を振りながら笑い出してしまった。

「ダメダメ。いけません。朝になります」

「そうだわ」突然マリーシャが声を上げた。「潮風峠よ。あの歌ならいいじゃない」

確かに申し分ない短さだ。あまりいい歌だとは思わないけれど。

「何ですか? ショカズ?」

「潮風峠」

僕ははっきりと発音した。でも、果たして知っているだろうか。同じ曲でも場所によって名前が違うかもしれない。

「ああ、潮風峠ですね。私も大好きです。この歌とても古い。二人はよく知っていますね」

 僕たちの前にたくさんのお皿が並べられた。どれも見たことがない料理ばっかりだった。

「さあ、食べましょう。薫製来ましたね」

僕らの前にスープ皿と何かをあぶったらしい料理が運ばれてきた。でも、鶏の薫製ではない。何か大きな魚を半身に切っていぶしたものらしい。当然、スープの中身はきのこではなくて、色とりどりの豆だった。僕は笑いをこらえるのに苦労した。肝心な部分が伝わっていなかったのだ。顔を見合わせると爆笑してしまいそうだったので、マリーシャの方は見なかった。

「ありがとうございます。いただきます」

たぶん彼女も同じなのだ。言葉の端々に笑いを噛み殺しているような雰囲気がある。

「いただきます」

僕は薫製を取り上げて、とにかくかじりついた。びっくりするぐらいおいしい。

「おいしい。ねえ、マリーシャ食べてみなよ」

僕がマリーシャの方を見ると、彼女はたまりかねたように笑い出した。

「変なの。まあ、おいしければどうでもいいわ」

ちょうどここで小ガルシアの歌が終わった。

「クリーディア、『シオカゼトウゲ』」

拍手が途切れると、すかさず緑目男が叫んだ。アデーレは男の注文を受けて大笑いしている。なんでだろう。あえてニレド言葉を使ったからだろうか。

 アデーレが「潮風峠」を歌い始めると、緑目男は黙って聞き入った。僕はこの隙にテーブル上の人間に目を走らせた。十人掛けの長いテーブル。緑目男とお付きを除く五人が中央大陸人。みんな物静かでこざっぱりとした上品な身なりをしている。

 この騒がしい酒場で、このテーブルが完全に浮いているのも無理はない。皆静かに話しをしていて、行儀よく飲み食いしている。時折歌に耳を傾けるけど、歌に合いの手を入れるようなことはしない。アデーレが「潮風峠」を歌いきっても、拍手はするが歌い手をはやし立てるようなことはしなかった。だから、決してうるさくはないのに、緑目男一人が目立っている。

「二人とも、食べたいものどんどん注文します。好きなものを教えてください」

 ふと僕は、緑目男がアデーレという名を知っているか聞いてみたくなった。考えてみれば、緑目男は彼女をクリーダと呼ぶ唯一意思疎通可能な人間だった。

「なぜクリーダと呼ぶんですか。あの人はアデーレという名前でしょう?」

僕の言葉が理解できなかったのか、あるいは僕の話が理解できなかったのだろうか。緑目男はきょとんとしたような顔つきをした。

「ええ。クリーダはアデライーデ・テイリーリャ。みんな知ってます。とても有名です。私は彼女の友達。だからクリーダと呼びます 1

今度は僕がきょとんとする番だった。でも、しばらくしてようやく合点がいった。ここではアデーレという名が一種の源氏名として機能しているのだ。

「アデーレの歌をみんな聞きに来ます。好きな歌を注文します。そうするとたくさん料理が売れます。だからアデーレはタダ。君たちもタダです。遠慮しない。どんどん食べましょう」

 僕は危うくスプーンを落としそうになった。隣ではマリーシャがむせて咳き込んでいる。それは、普通、遠慮するだろう。僕らの様子を見て、緑目男とお付きの二人が爆笑している。僕は思わずアデーレの方を見た。彼女は僕の視線に気づかず、聞いたことのない歌を一心に歌っている。

 僕はこの時まで僕らの飲食代がタダだなんて、全く知らなかった。でも、赤堀谷の一件を考えると、緑目男の言うことは嘘ではない気がしてくる。確かにこれだけ客寄せ効果があれば、飲食代はタダにしてもおつりが来る。むしろ、出演料を要求して当然なぐらいだ。もしかしたら、赤堀谷でアデーレは一銭も払っていないのかもしれない。

 考えてみれば不思議な話だった。アデーレが歌い手として認知されるのは、潮風峠以東に限られているみたいだ。ニレドやフィオリアでは弓の名手として有名なものの、歌い手としての評判は聞かない。それは多くの歌を東方語で覚えていることにも関係しているのだろう。「王の歌」は王のいる場所で王の言葉で歌わない限り、意味をなさないのだ。

 その歌をアデーレが歌い終えると、再びあたりは歓声と拍手に包まれた。わけのわからない言葉に交じって「アデーレ」と叫ぶ声が聞こえる。

「相当の人気ね。私たちが考えている以上に、あの人すごい人なのよ。だって…」

マリーシャは言いかけた言葉を飲み込んでしまった。何の前触れもなく、騒がしかった一座が静まり返ったからだ。でも、それは一瞬のことで再びあたりを大きな拍手が包んだ。

「来ましたね。巫女の杖です」

緑目男が腕組みをして酒場の入り口の方を見つめた。振り返ると、人混みをかき分けるようにして杖を持った男がやってきた。鮮やかな緑色のマントの下には仕立てのよさそうな黄土色の上着が覗いている。アデーレの前に立つと、何か切り口上のようなことを述べ、跪いて杖を差し出した。僕はただ息を飲んでその光景を見つめていた。あれほど騒がしかった一座がしんと静まり返っている。何か重要な意味合いを持つことなのだということが肌で感じられた。

 でも、アデーレはその杖を受け取らなかった。なんと、奥にいる小ガルシアを引っ張ってきて何かを大声で述べ立てると、尻込みする彼にその杖を受け取らせたのだ。とたんに割れるような拍手が湧き起こった。

「さあ、君たちもついていきなさい。王様からの招待 2です。ここよりいい食事食べられます。「王の歌」も聞けます」

僕はびっくりして緑目男の方を振り返った。彼の言っていることが真実なら、あれは王からの正式な招待ということになる。

「さあ、早く。クリーダ呼んでます」

後ろを向くと、アデーレが僕らに手招きをしている。小ガルシアはその向こうで、拍手に見送られるように酒場の入り口から姿を消した。

「またそのうち会いましょう」

僕もマリーシャも緑目男に手を振って大急ぎで酒場をあとにした。

 大通りに出ると、馬車が一台僕らを待っていた。小ガルシアは既に乗り込んでいて、杖を膝の上に載せて小さくなっている。

「ねえ、どういうことなの?」

馬車に乗り込むと、マリーシャは開口一番詳細な説明を求めた。

「あの緑色の目をした人が、王様からの招待だって言ってたのは本当?」

「もちろんそうさ。カンラート家当主直々のご招待だよ。当代一の歌い手といわれる人間にだけ、こうして杖を届けるんだ」

馬がいなないて馬車がゆっくりと動き出した。

「でも、今回はアデーレに対する招待なんじゃ…」

「もちろんそうに決まってるだろ」僕の言葉を遮って小ガルシアが叫んだ。「なんでよりにもよって俺が受け取らなきゃならないんだ」

「免許皆伝てやつだ。そろそろあんたも独立するいい機会だから。ここいらで本格的に顔を売っておかなきゃ」

アデーレは一人ご満悦らしく、頭の上で手を組んで椅子にもたれかかった。

「そんなこと言われたって、まだまだ修行不足だよ」

「師匠の私がいいと言っているんだ。いいんだよ」

アデーレが面倒くさそうに答えると、小ガルシアはなおも食い下がった。

「まだまだ完璧なんかじゃないんだ。時々つかえることだってあるし、「王の歌」だって完璧に歌うなんてできっこない」

「できるできないの問題じゃない。とにかくやるんだよ」

アデーレにそこまで言われると、さすがの小ガルシアも口を閉じた。

「ねえ、なんで杖が届けられるの?」

二人のやりとりなど気にもとめない風情で、マリーシャが口を開いた。

「森の民が東に来る時、巫女が杖を持っていたんだ。森の主と呼ばれる大木の枝でできていて、今の柱ヶ丘にたどり着いた時に、杖から根が伸びて再び大きな木になったという伝説があってね。その杖に見立てているんだ」

「つまり、その巫女のように王と杖にまつわる来歴を歌えってことさ。巫女は柱ヶ丘で、杖を地面に突き立てて歌っていたんだ。そうしたら杖が木になった。それは、そこが王の支配するべき地だと言うことを意味するんだ。王様ってものは自分を讃える歌を歌ってほしいもんなんだ。そうじゃなきゃ心配なんだろう」

アデーレのあとを受けて、小ガルシアがまくし立てるように話した。僕は驚いて彼を見つめた。なぜかわからないけれど、彼は気がたっているみたいだった。

「心配って、何が心配なの?」

「当然、巫女の呪い 3だよ」

小ガルシアは吐き捨てるように言った。巫女の呪い? 僕とマリーシャは思わず顔を見合わせた。

「結局、巫女を食い物にして成り立った国じゃないか。巫女は殺されたんだよ。王に殺されたんだ。巫女を祭り上げて、王は当然のようにこの国を支配してる。だけど、そもそも巫女なくしては国なんてできなかった。だからそのことを忘れてはいませんよという姿勢だけは崩していない。「王の歌」の歌い手を歓待している。でも、それは結局自分の正当性を主張していることと表裏一体なんだ」

「こいつは少しひねくれ者なんだ。別に黙って歓待されていればいいんだよ」

 今にして思えば、それは「王に捨てられた国」で育った者の複雑な気持ちの表明だったのだろうと思う。遙か昔、ニレド南部からフィオリアにかけての土地は、事実上は王の分家にあたる森の民が支配していた。ところが戦乱と辰角ヶ岳の大噴火で彼らは東に大移動し、残った正当な王の血筋は途絶えてしまった。北には傍流の王家がかろうじて存続し、南は素性の知れぬ覇王が君臨して長く戦乱が続いた(不思議なことに、彼らは皆一様に「王に列なる者 4」を名告っている)。

 ようやくテイリール家によって和平調停がなされ、それぞれの領主と自治都市が独立を保ちつつ共存する時代が続いた。ニレドも、草原の民による自治支配が続いた。でもそうこうしているうちに北からの進軍があって、この物語が始まる一〇年前(東暦八九〇年)に第二次対帝国統一戦線が瓦解すると、フィオリアはすっかりだめになってしまった。北からは攻められ、東からは見捨てられた土地なのだ。

 そうした一連の出来事の影響が小ガルシアをもろに直撃したのだ。それに引き替え僕ら草原の民は長く戦からは距離をおいていた。北にも南にも中立的態度をとり、戦の直接的被害から逃れてきたのだ。見方によっては非常にずるい態度だったに違いない。そして、非常に危険な立場でもあった。北か南どちらかが破れれば、勝者は僕らを簡単にその支配下に飲み込んでしまう。二つの勢力が並立するからこそ、僕らには緩衝材として存在意義があるのであって、どちらかがなくなれば僕らもただの邪魔者でしかない。そして、とうとう北は僕らを飲み込み始めたのだ。

 まあ、それぞれの立場はひとまずおいておいて、話を続けよう。とにかく、僕ら四人はカンラート家当主から正式な形で招待され、歓待を受けることになった。


Notes:

  1. 通常ケディア族の女性は家族以外の男性に本名を明かさないので、身分に応じた呼称で呼ばれる。おそらくこの人物はケディア語を解した上で彼女を「クリーデャ」と呼んでいたと思われるが、ケディア語では本来敬称であるはずの言葉が、彼女の本名と勘違いされるきっかけとなったに違いない。
  2. 当時王が吟遊詩人を招待する際、杖を持った使いを派遣していた。本文中で触れられているように、この杖は王権のしるしであり、杖を受け取ったものは最高の歓待を受けた。
  3. 具体的に何を指しているのかは不明。巫女の杖によってできたとされる柱ヶ丘樹海には様々な伝説があるが、侵入すると巫女の祟りにあって出られなくなるとか、木を伐ると巫女の恨みを買って作物が育たなくなるなどという言い伝えが現在に至るまで残っている。
  4. フィオリアにおける一種の貴族の称号。当然テイリール家も「王に列なる者」を名告っており、ガルシアとその養女であるアデーレにもそう名乗る資格はあったと推定される。