(2)へ
僕らがテセウスさんのところについたのは、ちょうどお昼頃だった。僕らが到着するやいなや、薪割りを中断して道路に飛び出してきた。
「クリーディア」
たぶん、彼は開口一番そう言ったと思う。(イルファレン周辺ではアデーレのことを「クリーダ」または「クリーディア」と呼ぶ人間が比較的多い。特に彼女と同族と思われる人間は十中八九彼女をこう呼んだ。)まあ予想はしてたけど、馬から降りたアデーレは彼と意味不明な言葉で話し始めた。
「ねえ、あの人」
マリーシャが声を潜めるように言った。
「なあに? どうかしたの」
「髪の色と目の色を見て。アデーレと同じだわ」
僕は、この時マリーシャに指摘されてようやく彼が中央大陸人であることに気づいた。だから、二人のあいだで交わされていた耳慣れない言葉はいわゆるケディア語に違いない。
「私の古くからの友人、テセウスだ。彼がしばらく我々の馬を預かってくれる」
僕もマリーシャも慌てて馬から飛び降りた。アデーレが向こうの言葉で僕らを紹介してくれたらしい。「古からの友人」と言う割りには、テセウスさんは若く見える。下手をするとアデーレよりかなり年下、まだ十代後半ぐらいなんじゃないか。
それに、男にしては体つきが華奢で、やさ男という言葉がしっくり来るようなタイプだ。大柄ではないが、女のわりにがっしりとした体躯のアデーレと並ぶと実に好対照だった。今までこわもて大男に見慣れていた僕は二人が友人であると紹介されても何だか納得がいかない。いったい何がきっかけで虎と鹿が友人になるというのだろう。
「ひとまず、裏手に柵で囲った小さな牧場があるから、そこに馬を入れて構わないそうだ。お茶をごちそうしてくれるらしいから好意に与ろう」
家の裏手に回ると、非常に大柄で屈強そうな男が荷車から大量の藁を下ろしていた。年の頃三〇代後半から四〇前後といったところだ。こちらの人物の方が、アデーレの友人と言われて納得できるんだけど。男は手を休めてこちらをふり返ると、牧場の柵を指さした。紐を外すと柵が動いて囲いの中に入れるようになっているらしい。僕は黙ってうなづいて柵を動かした。たぶん、この男とも言葉が通じない。
「ねえ、不思議な人だと思わない。どこの出身なのかしら」
囲いの中に馬を放して玄関に向かう際、マリーシャが小声で話しかけてきた。僕もすごく気になって視線をちらちらとその男の方へ向けた。抜けるように白い肌をしているから、北方系の人種なんだろう。でも髪の色はアデーレなんかよりもよっぽど黒い。その上瞳はすごく濃い青色をしている。
僕がおそらく北方の出身じゃないかと言おうとしたとき、僕たちとすれ違うように一人の女の子がこちらに向かって走ってきた。ほぼ僕らと同じ年ぐらい。たぶん一〇歳前後と思われる。すれ違いざまに何かを言われたけれど、要領を得ない。何語なんだろう。
「親子、なのかな?」
「そうでしょう、髪の色は同じだわ。あんまり似ていないけど」
その子は男のそばに行って何事かをしきりに話しかけていた。男は初めこそ女の子に視線を移したが、黙って藁の荷下ろしを続けている。
「行こう。じろじろ見ていちゃ失礼だよ」
僕らは表に回り小さな家の中に入った。入ってみてはっきりわかったのだけれど、テセウスさんは独り身だった。一応、室内はこぎれいに片づけられていて、椅子も四人分ある。でも、全く生活臭がなく、食器も必要最低限しかない。どう考えても、家事一般を取り仕切る女性の影はない。裏手の牧場にいた男とその娘と思われる女の子はここで暮らしていないような感じがした。
僕らは不揃いの茶碗で出されたお茶を飲んだ。テセウスさんとアデーレのやりとりは相変わらず理解できなかったけれど、テセウスさんはお昼をごちそうしたいと言っているみたいだった。また、急ごうとするアデーレを引き留めたがっているようにも見えた。
「昼には常宿に顔を出したいんだ。今日泊まれなくとも、市内に来ていることを伝えておかないと会えなくなる人間がいるから」
アデーレは僕らにそう断ると、引き留めようとするテセウスさんを振り切るようにして家を出た。
「ねえ、いったいどういうお友達なの? どこで知り合ったの?」
マリーシャが興味津々とばかりにアデーレを質問攻めにした。まあ、無理はない。僕も二人がどういう関係なのか、むしろテセウスさんに聞いてみたかった。
「歌仲間だよ」
マリーシャの質問に、アデーレは面倒くさそうに答えた。
「彼も歌を歌うの?」
「そうだよ。いかにも売れない吟遊詩人というなりをしてただろう」
まあ、確かに職業は吟遊詩人といわれて納得できる風貌ではある。でも、何だか奇妙な感じは残る。友人というにはどことなく不自然な雰囲気が漂っているのだ。むろん二人のあいだにぎすぎすした空気があるわけではない。ただ、テセウスさんはどこかアデーレに遠慮しているような気がするのだ。まあ、相手がアデーレじゃあ誰でも遠慮するかもしれないのだけれど。
「裏手の牧場にいた男の人と、私ぐらいの年の女の子はここで暮らしているの?」
「クリーディア!」
マリーシャの質問にアデーレが答えようとしたとき、テセウスさんが僕らを大声で呼び止めた。振り返ったアデーレが大声で何かしゃべってる。大声での会話をひとしきりしたあと、アデーレは力無く呟いた。
「馬車を仕立てるから乗っていけだってさ。全く、お節介なんだから」
「ねえ、アデーレ。クリーディアって何? これも別名の一つなの?」
僕が尋ねると、彼女はにわかに笑い出した。
「私たちの言葉ではね、そうだなあ、姉さんとか、姉貴ぐらいの意味だよ。もちろん、本当の兄弟以外のあいだでも使われる言葉だけどね」
そこで言葉を切ると、アデーレはテセウスさんの方に目をやった。ちょうど、荷車を馬に引かせて裏庭から姿を現したところだった。
「でも、そのことを知らない東国人の中には私の本名だと勘違いしている人間もいる。だから、別名といえば言えなくもない」
「ねえ」僕はアデーレの手を引っ張って聞いた。「なんでアデーレって名告っているの?」
彼女は少しだけこちらを振り返ったけれど、僕の視線を避けるようにテセウスさんに手を振った。
「なかなか便利だからだよ。アデーレといえば誰でも私が誰であるかわかるからね」
「そうかしら。かえって不便な気がするわ。だって、どこに行っても「魔女」として扱われるわけでしょ?」
マリーシャが異議を唱えたけれど、アデーレはそれを一笑に付してしまった。
「私は「魔女」なんだ。そうであるからにはそれ相応の扱いを受けたい。まあ、ついてくればわかる」
アデーレに従い、僕とマリーシャもテセウスさんの荷馬車に乗り込んだ。僕らが乗ると、荷馬車は大きく揺れながら南を指して走り始める。さっきの男が黙々と荷下ろしをしていたのは、このためだったのだろう。あちこちに藁と乾いた土がついていた。人を乗せるためのものではないから、あまり乗り心地はよくない。でも、歩くよりは早くイルファレンにつくし、旅の疲れが抜けない僕らには非常にありがたかった。
道中、アデーレもテセウスさんも口数が少なかった。二人並んで馬車の前の方に腰掛け、思い出したように何かを話すだけだった。アデーレが何を考え、二人のあいだでどんな話が交わされたのかはわからない。
でも何となく、事情があって離別せざるを得ない家族のような雰囲気が漂っていた。テセウスさんはアデーレを行かせたくないのだ。どこに? おそらくどこにも行かせたくなかったに違いない。この時点で、何かアデーレを取り巻く環境が悪化する予兆を捉えていたのだ。それは、北の動向かもしれないし、中央大陸の動向かもしれない。きっとアデーレのことだから、おとなしく身を隠していろという忠告など聞かなかったのだろう。危険を承知で活動を続ける彼女がテセウスさんはきっと心配でならなかったのだ。
僕とマリーシャは馬車の尾尻の方に後ろを向いて腰掛けていた。そして、ただ遠ざかっていく森を見つめていた。柱ヶ丘。巫女終焉の地。巫女に導かれてやって来た王たちは、この地でぬくぬくと繁栄した。大きな港にはいくつもの船が行き来し、街は商人が行き交う。富み栄えた人々は大きな城壁を築いた。民の繁栄する様を見たら巫女は何を思うだろう。果たして喜ぶだろうか。巫女なくして王はなく、今見るような都の繁栄もない。すべては巫女を下敷きにして成り立っている。
「あの森には、本当に入れないのかしら?」
マリーシャがぽつりと呟いた。
「柵や城壁があるわけでもないから、誰でも入れそうに見えるけど。ねえ、アデーレ。本当にあの森には入れないの?」
僕は後ろを向いてアデーレの背中に尋ねた。
「いや、全く入れないわけではない。ただ、立入禁止区域がある。縄が張ってあって、そこから先に入り込むと罰があたるだとか、二度と出てこられなくなるとかいろいろいわれている。まあ、そんなことを言われなくたって入ろうとは思わないさ。なんたって、森の一番奥だからそこまでたどり着くのが至難の業なんだ」
アデーレの向こうに、イルファレンの北門が口を開けている。西門に比べれば、人数は少なかった。ただ、やたらと警備兵のような出で立ちをした男がうろうろしていた。
「物々しいわね。何かあるの?」
「この門はカンラート屋敷の裏手にあって、他の門より屋敷に近いのさ。だから、門の大きさに対する傭兵の配備数が多い。別に心配はいらないよ。歓迎はされても、追い出されることはない」
「カンラート屋敷ってことはあの王の末裔?」
「そうだよ」
驚く僕に、アデーレはなんてことはないといった体で答えた。
「イルファレンの事実上の支配者だ。そのうち会えるさ」
「えーっ!」僕もマリーシャもほぼ同時に声を上げた。「嘘でしょ。相手は王様みたいなもんじゃ…」
「無理だろう。忍び込んだり、強引に上がり込むつもりなの?」
アデーレはお腹を抱えて笑い出した。
「行きたくなくたって連れていかれるさ。悪名高い魔女をこの目で見たいといって、屋敷に連行されるんだよ」
僕とマリーシャは思わず顔を見合わせた。アデーレはなおも笑い続けていた。
門前でテセウスさんとお別れすると、僕らは門番らしき傭兵に取り囲まれた。でもアデーレを縛り上げたり、僕らを追い出したりする気配は見受けられない。それどころか、皆一様にアデーレに対して握手を求め、門の中に案内した。
「リェイジュン、早く来るんだ」
僕は驚きのあまり硬直していて、アデーレに呼ばれるまで通行を許されたことに気づかなかった。門を通過して傭兵の様子をちらちらと振り返ったけど、陽気に手を振るだけで何かしてくる様子はない。僕は何だか拍子抜けしてしまった。
「大通りに出るとひどく混雑してくるから、絶対にはぐれないようにするんだ。はぐれたら最後だと思え」
アデーレにそう言われて見渡すと、確かにあたりはすごい人出だった。様々な衣装を着た様々な人種が入り乱れている。大きな荷物を担いで行き来するたくさんの男。それらに声をかける若い女たち。ここで交わされる言葉は全くわからない。
確かに、一度アデーレとはぐれたら最後だ。西に帰るどころか、僕らはこの街から出ることもできない。僕はともかく、マリーシャはどこかに売り飛ばされかねない。僕はアデーレの手を強く握った。マリーシャも僕の手を握りしめた。そうして、人をかき分けるように僕らは路地裏から大通りに出た。
道の両脇に屋台や露店が並び、その間を大勢の人が行き来していた。時には露店の前で大声で商談する人もいて、しばしば人の流れは止まり、ぶつかり、逆流している。僕は何度も人や人の抱える荷物にぶつかり、時にはつまづき、そのたびごとにアデーレに助けおこされた。マリーシャは文字どおり僕にしがみついている状態だ。僕は左手でアデーレの手をとり、右手はマリーシャに掴まれていたので、足をとられると派手に転んでしまう。何度目かの転倒のあと、アデーレは人をかき分けて横道に僕らを引っ張り込んでくれた。僕はマリーシャともどもその場にへたり込んだ。
「三本先の道を左に折れなきゃ宿に行けないんだ。つらいとは思うが強行突破するぞ」
僕もマリーシャもたいして歩いたわけでもないのにへとへとだった。何しろ、ここまでたくさんの人間でごった返す場所に出たのは二人とも人生初のことなのだ。
「何か抜け道はないの?」
僕はうんざりしてアデーレに聞いてみた。
「普段の日ならともかく、市の期間はかえって遠回りなんだ。中心街に行けば行くほど狭い路地に所狭しと露天が並ぶ」
戻るにせよ退くにせよ大変さは変わらない。僕は渋々立ち上がった。
「もう少し小さければ二人まとめて担いでいくところなんだけどなあ」
アデーレはそうぼやくと持っていた荷物を腰にくくりつけた。
「マリーシャ、肩車しよう」
「えっ、いいの?」
マリーシャは顔を輝かせた。
「このままじゃ遅かれ早かれリェイジュンが誰かに踏みつぶされてぺしゃんこになる。リェイジュン、あんたは歩けるね?」
僕は黙ってうなずいたけど、正直マリーシャが羨ましかった。彼女は意気揚々とアデーレの肩にまたがり、僕は今まで通りアデーレの右手をとって人混みの中に繰り出した。
「すごい。すごい人ね。あそこにある建物は何?」
「ねえ、あの妙な小屋は何?」
「見せ物小屋だよ。珍しい動物や植物、とにかく珍しい物を見せているんだ」
アデーレの肩の上にいるマリーシャにはいろいろな物が見えているらしい。悔しいけれど、僕には人しか見えない。
「ねえ、私たちも入れる?」
「入れてやってもいいが、先に東雲亭 3という宿屋に行きたいんだ。そこで会うことになっている人間がいる」
「それが終わったら、連れてきてくれる?」
「さあ、どうかな。王に連行されなければ来られるかもしれない」
「じゃあ、今連れてってよ。ねえ、リェイジュン。行きたいわよねえ」
僕は黙っていた。何はともあれこの人混みから抜け出したかった。何を見せられようが知ったことではない。
「とにかく連れてってよ」
「行ってもいいが、込んでいたら置いていくぞ」
「だめだめ。アデーレも一緒に来て解説してよ。私たちここの言葉わからないんだから」
アデーレは人をかき分けて右に曲がった。赤や黄色緑の派手な布で覆われた小屋の前に来ると、入り口にいた男に話しかけ、腰にくくりつけた袋から銀貨を二枚差し出した。アデーレの肩からマリーシャがスルスルと降りてくる。
「ねえ、中に何がいるの?」
「南海諸島にしかいない珍しい鳥がいるらしい。とにかく入ってみよう」