第五章 東へ! 東へ!(3)

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第六章 東都イルファレン(1)

 マリーシャの推測通り、マーグスさんが連れていってくれたのは暖かい水が流れる川原だった。天気がよいからだと思うけど、川岸は多くの人で賑わっている。僕は早速靴を脱ぎ捨てて川の中に入った。川のあちこちからお湯が湧き出ているらしく、至る所で気泡が湧いては浮かび上がってくる。お湯は熱くもぬるくもなく、普通に温泉として浸かっても差し支えない温度だった。実際、適当な大きさの穴を掘って湯に浸かっている人もいる。裸になってもよかったけれど、手ぬぐいを持ってこなかったから浸かるのは足だけにした。

「すごいところね。水沸谷の温泉がかわいそうになるぐらい広いわ」

「そうだね。お湯の湧き出ている量が半端じゃないや」

僕らは、足を川の中につけたまま手近な岩の上に腰掛けた。浸かっているのは足だけなのに、全身が温かくなってくる。

「ねえ、これからあの港町に行くわけでしょ」

「そうだろう。イルファレンに行くって言ってたから」

「アデーレ、どうしてあそこに行くんだと思う?」

海に連れていくと約束したからと言いかけて、僕は口をつぐんだ。もしかしたら、ことはそんなに単純ではないのかもしれない。

「誰かがいるのかもしれない。これから北と渡り合う上で鍵になる人物が」

「そうかしら。そんなんじゃなくて、誰かあの人を待っている人がいるんじゃないかしら」

確かに、アデーレは少なくともフィオリアよりこちらの土地になじんでいるように見える。周囲も、彼女に対していたって好意的だ。フィオリアなんかよりこちらの方がむしろ故郷というべき場所なのではないか。

「よくわからないけど、こっちの方が彼女にとって居心地はよさそうに見えるよ。イルファレンに彼女の拠点があってもおかしくないとは思う」

それから僕らはひとしきり川遊びをした。そして結局、裸になってしまった方がいいぐらい服を濡らしてしまった。冷たくないものだからついついやりすぎてしまうのだ。ふざけてお湯をかけてくるマリーシャに、僕も結構むきになって応戦した。濡れた服を着たまま岩の上に腰掛けていると、風の冷たさが身にしみた。でも、もう後の祭りだ。

「マーグスさんを見つけて早く宿に戻ろう。このままじゃ二人とも風邪をひくよ」

「そうよ。風邪ひいたらどうしてくれるのよ」

マリーシャは自分の行いを棚に上げて僕を一方的に責め立てた。はっきり言ってこの件に関してはお互い様だ。僕は長身な男の姿を探した。

「ねえ、あそこ、あそこ。アデーレも一緒だわ」

マリーシャが指さした方向に目を転じると、確かにアデーレとマーグスさんの姿があった。アデーレは旅装に着替えていて何か荷物を持ってきているみたいだった。

「アデーレ!」

マリーシャが大きな水しぶきを上げて向こう岸へ走っていったので、僕は少し距離をとって川を渡った。まあ、今さら濡れたところで同じなんだけれど。

「二人ともびしょ濡れじゃないか」

あきれ果てたといわんばかりの目で、アデーレは僕らを見比べた。

「ここに来たと聞いてある程度予想はしていたが、ずいぶんと派手にやったな」

「リェイジュンがいけないのよ」

「それはお互い様だろ」

マリーシャがふくれっ面をして言うので、僕も言い返してやった。そもそも初めにお湯かけっこを始めたのは彼女なんだから。

「とにかく、服を脱いで湯に浸かれ。着替えは荷物ごと持ってきたから」

僕らが湯から上がって二人のもとに戻ると、二人はなにやら神妙な顔で話し込んでいた。いうまでもなく、僕らにその内容はわからない。アデーレは宿で昼食を食べようと言っただけで、ずっとマーグスさんと話し続けていた。

いや、「マーグス」という表記は必ずしも正しくないのかもしれない。アデーレの発音に従えば「メーグス」とも聞こえる。まあ、この程度の違いは僕の耳がこっちの言葉に慣れていないせいと、その言葉を正確に表記できる文字がないことに起因した問題だ。

対して、マーグスさんはアデーレをアデーレとは呼ばなかった。たぶん、「リーズィ」 1と呼んでいたのではないかと思う。これはあくまで話す調子の変化を聞いていて感じたことだ。もしかしたら「リーズィ」は何か別のものを指す言葉なのかもしれない。

とにかく、僕とマリーシャは神妙な面持ちで話し込む二人のあとを黙ってついていった。二人の話は宿の前でようやく終わりになった。いや、終わりにしたという方が正しそうだった。おそらく、何か人に聞かれたくない内容なのだろう。マーグスさんは宿の前で僕らに軽く手を挙げて、どこへともなく去っていった。アデーレは何も言わず黙って彼を見送った。でも、彼女に何か気がかりなことがあるらしい。彼女の目の色と、後ろ姿を見送る様子から何となく察しはついた。

「どうして?」マリーシャがアデーレを呼び止めた。「お昼ご飯ぐらい一緒に食べればいいのに」

「あいつにも連れがいる。たまたま私が通りかかったから、滞在を一日延ばしたらしい。連れを置き去りにしていつまでも別行動というわけにもいくまい」

アデーレはさっさと宿の中に入ってしまった。

「マーグスさんのお連れって、奥さんか恋人なのかしら?」

「なんで?」

「だって、そうじゃなきゃそのお連れの人も一緒にご飯を食べるまでじゃない。アデーレと会わせられない事情があるってことでしょう?」

まあ、確かにそう言われればそうだけど、何もそこまで詮索することもないのに。

「みんながみんな話す言葉が違うんじゃないか。通訳が面倒だから会わないようにしているんだよきっと。とにかくあれこれ詮索なんかしないでアデーレに聞けばいいじゃないか」

僕はマリーシャの詮索癖に少々嫌気が差していた。どうしてわからないものをわからないものとして受け入れられないんだろう。僕らの入り込めないお話というものがこの世界には無数に存在している。それはそれで仕方がないことだし、そこに入り込んでいこうとすることは、一歩間違えると傲慢かつ礼を失する行為になる。

今にして思えば、僕らの知らないところでいくつもの情報が行き交い、いくつもの駆け引きが行われていたのだ。少なくとも、アデーレは僕らとの約束があったから東に来たわけではない。僕らを連れてきてくれたのは親切心だろうけど、彼女には彼女なりの目的があったはずだ。それはたぶんイルファレンで旧知の人と会うとか、養子の小ガルシアを連れ出すとか、そういう僕らの目に見えることではなかっただろう。その気になれば、そういうことを他人に悟られずに完璧にやってのける手腕はある女だった。

僕らは濡らしてしまった服を物干し竿に通してから食卓に向かった。アデーレは先にテーブルについていたけど、腕組みをして何かを考えているみたいだった。僕らが食事を食べ始めても、腕組みを解こうとはしなかった。

「何をそんなに考え込んでいるの?」

僕は業を煮やして聞いてみた。

「すっかり忘れていたんだが、明日から三日間市 2がたつんだ」

「えっ、イチ?」

耳慣れない言葉に、僕もマリーシャも顔を見合わせた。

「商人の集まりのようなもんだ。方々から商人が売り物を持って集まってくる。そして品物目当てに多くの人も集まってくる。そこで売ったり買ったりするわけだ。龍の墓場にも年に数回は市がたっているはずだが」

昔はニレドを頻繁に商隊が行き来したから、時折龍の墓場でそうした取り引きの場が設けられたらしい。でもここ数年はニレドを通行する商隊も激減し、そういう場はなくなってしまったと聞いている。そんなわけで僕は実際それを見たことがなかった。

「もう市なんてないよ。聞いたことはあるけれど」

「私は聞いたこともないわ。その市がたつと何か困ったことでもあるの?」

「期間中はえらく混み合うから、イルファレン中心部まで馬で行くことができなくなる。城壁の外に馬を置いて行かざるを得ない。しかし今から出ると閉門時間に間に合わない」

「もしかして、またここで三日間足止めをくうの?」

僕は早く海が見たくてたまらなかった。昨日、潮風峠から見た海ではなく、もっと間近に海を見たかった。

「いや、いくつか手だてはある。とにかく、あたってみてから考えよう」

そう言うとアデーレは無言で食事を取り始めた。そしてあっという間に平らげて、一人で部屋に引き上げていった。

「どういう手だてがあるんだろう?」

僕はいささか恐くなってそう呟いた。アデーレの考える手だてなんてきっとろくでもないものに決まっている。門番でもたたき起こして入れてもらうつもりなんだろうか。

「馬に乗ったまま城壁を飛び越えるとか、穴を掘って城壁の下をくぐるとか、そういう手だてでないことを祈りたいわ」

やっぱり、マリーシャも考えることは同じだった。

おそらくその手だてのためなんだろうけど、アデーレは急いでしたためたらしい手紙をどこかに持って行った。そしてそれっきりしばらく姿を見せなかった。僕らは夕飯までの長い時間をどうやって過ごしたものか考えあぐねた末、結局散歩に出ることにした。それ以外に有効な時間の使い方なんてなかったし、ここなら二人で出歩いても大丈夫だろうという安心感があった。

僕らは湯煙のたつ小川に沿って歩き、再び湯の川を散策し、高台に登って集落とその周辺を眺めた。残念ながら、ここではイルファレンと海は見ることができなかった。それでも集落の至る所を踏破して、日が潮風峠にかかる頃になって宿の扉をくぐった。アデーレは既に戻っていた。

その晩は昨日のようなお祭り騒ぎをすることなく、アデーレも僕らと一緒にベッドに入った。そして翌朝には赤堀谷を出て街道を東へと向かった。それほど進まないうちに、僕らの視界に城壁に囲まれた巨大な都市が姿を現した。

紛れもなく、東海岸随一の都市イルファレンだった。まるでよそ者を拒絶するかのように高い城壁が周囲を囲んでいる。城壁には物見櫓のようなものもあり、周囲を常に伺っているかのような威圧感があった。

「どうやって中に入るの?」

僕は前を走るアデーレに大声で聞いた。

「はあ?」

「私たち、中に入れるの?」

「ははははは」

彼女は笑いながら馬の速度を落として僕らの脇に並んだ。

「誰であろうと中には入れるさ。ただし、この三日間馬による入場は規制されている。私だけなら馬ごと入れるが、あんたたちはだめだ。許可証がないからね。柱ヶ丘の脇に知り合いがいるから、そこに馬を置いて歩いていかなくてはならん」

「えっ、柱ヶ丘だって?」

それって巫女一行の終着地点じゃないか。僕は思わずきょろきょろと周囲を見渡した。

「あそこだよ」

イルファレンの城壁の北側に、確かに森が広がっていた。初めはそれほど大きくないように見えたけど、近づくにつれてそこが巨大な樹海であることがわかった。とにかく、地平線のほとんどが木で覆われてしまうぐらい広いのだ。

「あそこで馬を降りて、歩いて北門から入る。うまく連絡が通っていれば、三日間の宿代と食事代は完全にタダ。しかも、間違いなくおみやげつきだ」

「ねえ、海は? 海に行ける?」

「海は明日だ。明日の朝、日が出る頃に連れてってやる」

門に近づくにつれて行き交う人の数が多くなってきた。僕らは東門を目前にして進路を北に変え、柱ヶ丘に向かった。ほぼ城壁に沿うようにして走っているので、嫌でもイルファレンの巨大さというものを実感した。

僕はこの時点でここが王の末裔によって築かれた事実上の都であることをしっかりと理解していなかった。ここは今なお王の歌が歌われ、王とその血に対する信仰の中心地なのだ。むろん、王の歌の歌い手としてのアデーレについてはもっと理解してはいなかった。

王の歌の歌い手であるということがどういう意味を持つのか。アデーレ、すなわちアデライーデ・テイリィーリャ(テイリールの魔女)がこの地でどのような意味で機能しているのか。僕はここで数え切れないぐらい多くのことを知った。たとえ言葉はわからなくても、いや、わからないからこそ多くのことを学んだ。

だから僕は断言する。魔女は一人ではない。始原の魔女だけが魔女なのではない。森の主と共に王を先導した巫女もまた魔女の一人だった。そして間違いなくアデーレも魔女の一人だった。

願わくばアデーレがこの世界のどこかで何食わぬ顔をして生きていますように。魔女は死ぬ。でも、魔女が死ぬのは生きるためなのだ。巫女は森と共に一度焼け死んだはずだ。アデーレがトリエラ陥落の折に焼死したように。魔女が死んだということは、裏返せばまだ生きられるということにほかならない。仮に生きていたとしても二度と会うことはないだろう。彼女が公式的には死んだことになったおかげで、いろいろな問題が片づいた。そういういろいろな問題を再燃させないために、彼女は完全に死んだふりを貫き通すはずだ。いい加減なようでいて、そういうところは全く手抜かりをしない。

それにしても、惜しむらくは彼女と共に実に多くの歌が失われたことだ。義弟であり、養子であり、同時に弟子でもある小ガルシアは、アデーレからかなりの数の歌を伝授された。そうはいっても、北方歌謡とそれに近い中央大陸叙事詩は言葉上の問題から伝授されずじまいだった。もちろん、これらの言葉はこの話に登場したほとんどの人間にとって守備範囲外だから惜しんだところでどうしようもないことだけど。

とにかく、僕らは森の脇に住むというアデーレの知り合いのところへお邪魔することになったのだった。


Notes:

  1. アデーレの異称の可能性もあるが、ケディア語で市を表す言葉「リイジ」の可能性が高い。
  2. 当時から現在と同様年二回の大市と月ごとの市があるが、これは前者を指している。