第五章 東へ! 東へ!(2)

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 僕らが峠越えをしたのは、ファリエンテに来て四日目の昼だった。空は晴れ渡っていて、山登りには申し分ない天気だ。といっても、潮風峠はそれほど難所ではない。街道の通過地点だけあってそれなりの道幅はあるし、馬に乗って越えられる。いくつかの岩場で、馬を下りたけれど、予想していた以上に早く、楽に峠を越えられた。三日間も宿で足止めをくっていたから、僕らには体力があまっていたのだ。

「おめでとう。これで東入りだ」

峠のてっぺんに来ると、アデーレは馬を止めて東を指さした。

「もしかして、海?」

僕もマリーシャもアデーレの脇に馬を並べてこれから向かう東の土地を見おろした。谷間に散見する集落、その向こうには見たこともないほど大きな街がある。海に突き出た半島、それに囲まれるように港があり、大小様々な船が泊まっている。半島の先には、小さな島がいくつか見える。

「すごいわ。海よ、海。北草原出身ではきっと私たちが初めてに違いないわ」

「ねえ、僕たちはこれからどこに向かうの? 最終目的地はどこ?」

僕はかなり興奮して隣のアデーレを見上げた。アデーレも非常にうれしそうだった。

「まず、今夜の宿は赤堀谷」彼女はそう言って麓の集落を指さした。「あそこも温泉地だから、旅の疲れを癒すにはもってこいだ。そこで休んで山を下りたら一気に東雲湾に入る」

「あそこだね?」

僕はいくつもの船が停泊している大きな港町を指さした。

「そう。イルファレンだ。ファシュリア最大の都市にして王の末裔によって築かれた事実上の都さ」

僕らはそこで宿の女将さんが持たせてくれた弁当を食べた。眼下に海を望む場所での昼食は寒いことを除けば申し分なかった。確かに、今までとは明らかに風の匂いが違った。きっと海から来る風が潮の香りを運んでくるせいなんだろうけど、今まで以上に木々の匂いが深みを増した気がする。なんともいえず新鮮で、すべてを新しくしてしまうのではないかと思われるような生命力に満ちた風だった。

「僕はここの風が気に入ったよ。確かに、アデーレの言ってたことは本当だったね。全然空気が違うよ。何だか、心が軽くなるような気がしてくる」

「ここの風は特別なんだ。海から吹く風と山の空気が交わるところだから。時折雨も運んでくるけれど、おかげでいろいろなものがよく育つ。だからここに来るといろいろなものがおいしいんだ。食事の美味さに関しては、峠の東と西では雲泥の差がある」

アデーレは立ち上がって馬を連れにいった。この景色とお別れするのはちょっと残念だけど、出発の時間なのだ。

「夕方前には谷につく。今夜は豪勢な食事をとろう。ここでとれる猪は絶品なんだ」

確かにその日の夕食は豪勢で、なおかつアデーレによる生演奏つきというおまけまで付いてきた。僕もマリーシャもアデーレの歌が持つ力とそれに伴う恩恵に度肝を抜かれたけれど、はっきりいってまだまだこんなの序の口だった。

谷の入り口についたのは、夕方と言うより昼下がりの時分だった。段々畑とあちこちに点在する家という景色は何となく水沸谷に似ていて、僕は強い既視感に襲われた。実は東に行くなんて真っ赤な嘘で、ぐるっと回って水沸谷に戻ってきたんじゃないかと思ったぐらいだ。

でも谷の中を進むにつれて、ここが水沸谷と明らかに違う雰囲気を持っていることに気づいた。ここはあくまで宿場町で、他所からやって来て通過していく人たちのために宿屋があり、湯治するための結構大きな施設もあった。山のどん詰まりにある水沸谷と違って通過地点の赤堀谷は明らかに風通しのよさがあり、ただの田舎じみた谷ではなかった。

谷が二股に分かれている地点で、アデーレは街道をはずれて谷の奥へ進んだ。理由はすぐにわかった。温泉の方へ向かっているのだ。道の脇を走る小川はいつしか湯気をたてていた。

「ジーナ!」

こぢんまりとした宿の前で馬を止めると、アデーレは大きな声で叫んだ。彼女が大急ぎで馬を下りると、宿のドアが内側から開いて一人の太った女が出てきた。おそらく、年の頃四〇前後。宿の女将さんに違いない。

「アデーレ!」

飛び出してきた女将さんはアデーレに抱きついてなかなか離れようとしなかった。早口で何かを言っているけれど僕らにはちんぷんかんぷんだ。

「裏手に馬屋があるんだ」

アデーレは抱きつかれたまま僕たちの方を振り返って言った。

「わかったよ。つないでくる」

僕はアデーレが乗ってきた馬と僕の馬を引っ張って宿の裏手に回った。馬屋には他に痩せた馬が一頭いるだけで、三頭とも難なく入れられた。

「すごい歓迎ぶりね。昔からの知り合いなのかしら」

宿の表に回る途中でマリーシャがぽつりと呟いた。

「さあ、よくわからないよ。アデーレがどこでどう知り合いを作るかなんて」

実際、東の言葉はニレド言葉とずいぶんと違っていて、ほとんど理解できないのだ。だから、アデーレが宿の女将さんとどういう知り合いなのかもわからない。

僕らはとにかく部屋で荷物をほどき、ここ数日ためてしまった洗濯を一気に片づけた。そしてお湯につかって体を洗い、宿備え付けの寝間着に着替えてしまった。アデーレだけは、女将さんとなにやら話しながらわざわざ持ってきた弦の調律をしていた。

外はまだ薄明るく、夕食までだいぶ時間があった。寝間着で外をうろついても風邪をひくだけなので、結局僕らは部屋に籠もっていた。

「何だか温泉にもつかったし、もう一日も終わりって気分ね」

マリーシャはベッドに寝そべり、天井を仰いで言った。確かにそうだった。

「東にも来たことだしさ、アデーレに歌の数曲でも歌ってもらおうよ。そうすれば、本当にぐっすり寝られそうな気がするよ」

でもまだ一日は終わってなんかいなかった。はっきりいって半分も終わっていなかった。

「ねえ、何だか下が騒がしくない?」

マリーシャが不意に半身を起こした。

「そういえば」

人が集まっているような気配を感じて、僕は窓を開けて下を見おろした。宿の前の広場には篝火がたかれ、かなりの人間が集まってきている。

「なんだ。いったい何が始まるんだ?」

マリーシャも窓辺にやってきて同じように下を覗いた。

「何かがあるのよ。もしかしてお祭りかしら?」

不意に、部屋のドアがノックされ、洗濯物を抱えたアデーレが入ってきた。

「もうとっくに乾いているから、寝間着を脱いで服に着替えるんだ」

洗濯物に隠れて見えなかったけれど、アデーレも旅装を解いてまともな服に着替えていた。いや、まともな服というわけではない。これまでついぞ見たことがないような不思議な服だ。上下一続きで、裾はくるぶしまであり、袖がやたらと幅広い。それに、普段は結っている髪を完全に下ろし、頭に何かつけている

「なあに? どうしたのその格好」

僕もマリーシャもあっけにとられて言葉がなかった。

「下に来ればわかる」

僕らは大急ぎで着替え、宿の外に出た。周囲は人だらけで、アデーレがどこにいるのかさえよくわからない。でも、まごまごしている僕らを女将さんがめざとく見つけて広場の中央にあるテーブルに案内してくれた。周囲のテーブルも人で完全に埋まっていて、テーブルに用意された料理を黙々と食べていた。テーブルからあふれてしまった人たちは付近のテーブルから好きなものをとって立ったまま食べている。

アデーレの姿はなかった。僕らがきょろきょろしていると、隣に座っていたおじさんが、お皿に食べ物をとって僕らに渡してくれた。僕はありがとうといったけれど、残念ながら通じない。結局、言葉による意思疎通は諦めざるを得なかった。

「言葉が通じないって不便ね。アデーレはどこに行ったのかしら」

僕らは必死に彼女を捜しているけれど、一向に姿を見つけられない。地元の祭りに参加させてもらうにせよ、通訳が居なくては全くわからない。

「ねえ、もしかしてここにいる人って、アデーレの歌目当てで集まってるんじゃないか」

「えっ、じゃあ、お祭りじゃなくてアデーレの独詠会ってこと」

女将さんが僕たちのところに来て、コップとジュースの入った水差しをもってきた。

「アデーレは?」

僕は思い切って女将さんに聞いてみた。アデーレの名前ならわかるはずだ。女将さんは笑って宿の方を指さすと、もと来た方へ戻ってしまった。こうなると、僕とマリーシャは顔を見合わせて黙り込むしかない。

「とにかく食べていようよ。きっとそのうち来るってことだよ」

僕はマリーシャにコップをとらせて水差しを持ち上げた。

不意に、あたりの喧噪がやんだ。僕はびっくりして持っていた水差しを落としそうになった。原因はすぐにわかった。弦を抱えたアデーレが広場に姿を現したのだ。静寂ののち、すさまじい拍手が湧き起こった。やっぱり、僕の勘に狂いはなかった。女将さんの歓迎ぶりはこれのせいだったんだ。

アデーレは拍手に笑顔で答えると、まっすぐに僕たちのところに来た。

「好きなだけ食べたら、早く布団に入るんだ」

他にも何か言われたような気がするんだけど、何を言われたのかさっぱり思い出せない。とにかく僕はびっくりしていたし、周囲の観客同様興奮していた。ただ呆然とアデーレの姿を見ていた。

拍手が鳴りやむと、アデーレは大きな声で何かを話し始めた。微妙に節がつき、韻を踏んだ言葉であることが僕の耳でも聞き取れた。そして、それが終わると持っていた弦を抱えるようにして椅子に座り、歌を歌い始めた。ゆっくりとした旋律。よくのびる声。彼女の声は実によく響いていたし、音域も広かった。水沸谷では聞いたことのない歌だ。あそこで披露されていた歌は彼女の知っている歌の一部にすぎず、その技量を余すところなく伝えていたわけではなかったのだ。

節と調子が所々で変わりながら、長々と歌は続いていた。僕は歌に完全に聴き入っていた。時折、どことなく聞き知った言葉を耳が捉えるのだ。僕は言われなくても、これが「王の歌」であることを確信していた。たぶん、マリーシャだってそう思っていただろう。

突然、僕の目の前に大きなミカンが差し出された。横を振り向くと、さっきのおじさんが僕らのために二つ持ってきてくれていた。僕が笑って受け取ると、おじさんも笑った。僕は臂でマリーシャをつつき、ミカンをもらったことを伝えた。

それを境に、僕もマリーシャも食事をとり始めた。みんな歌に聴き入ってはいるけれど、食事の手を休めてはいない。たぶん、気楽な宴会のようなものなのだ。解説者がいないので、何の料理なのかよくわからないものもあるけれど、とにかくみんなおいしかった。そしてボリュームがあった。ジャガイモ一つとってもその大きさが半端じゃない。ぱりっとした白身魚のフライ。何種類もの串焼き。豆のサラダ。きのこ入りのオムレツ。カボチャのバター焼。女将さんが持ってきてくれたシチューは熱々で、具たくさんだった。最後にもらったミカンを平らげると、もうすっかりお腹いっぱいだった。

僕はできうる限りアデーレの歌を聞いていたかったけれど、隣でマリーシャが船を漕ぎ始めていた。僕はマリーシャを促して部屋に戻り、ベッドに潜り込んだ。階下ではまだアデーレの澄んだ歌声が響いていた。

翌朝目が覚めると隣のベッドでアデーレが熟睡していた。たぶん、夜中まであの調子で歌い続けていたのだ。あのへんてこな衣装を着たままで、全く目を覚ましそうな気配がない。

「今日はこの人午後にならないと起きないわよ、きっと」

マリーシャはあきれ半分諦め半分といった趣でそう呟いた。彼女は僕より先に起きてもう着替えを済ませている。きっと起こしてみたけど無駄だったのだろう。

「仕方ないさ。下手をすると夜明け近くまで歌いっ放しだったんだろうから」

「でも、今日一日どうする? 宿に籠りっきりになるのはもうごめんだわ」

ここなら僕らだけで出かけても問題はおきないだろう。直感的に僕はそう思った。

「今度はアデーレを置いて僕らが遊びに出よう」

「大丈夫かしら」

「そんなに大きな村じゃないし、迷ってここに戻れないと言うことはないと思う」

それに、昨夜の独詠会の盛況ぶりを考えれば、この村でアデーレを知らない者はいないといっても過言ではないはずだ。何より、村全体がアデーレに対して好意的だし、僕らに対して危害を加えるような大人はいないように思われる。ミルスナディアなんかより圧倒的に居心地がいい。

「そうね。もし帰り道がわからなくても、アデーレの名前を出せば誰かがここに連れてきてくれそうだわ」

「そういうこと」

マリーシャが階下に行ったので、僕は寝間着を脱ぎ捨てて昨晩着ていた服に着替えた。僕らが話しているあいだもアデーレは死んだように眠っていたから、僕は思わず彼女の呼吸の有無を確かめてしまったほどだ。試しに彼女の体を揺すってみたけど、目覚める気配は皆無だった。

僕が階下に降りた時には、既に朝食の準備が整えられていた。そして驚いたことに、マリーシャの隣に柄の悪い大男が腰掛けている。男は僕に気づくと無言で手招きした。仕方がないので、僕はおそるおそる二人のテーブルに近づいた。マリーシャも何だか困ったような顔で僕を見ている。

「アデーレ?」

僕が席につくと男はそう言って天井を指さした。きっとまだ寝ているかと聞いているのだろう。そのとおりなので僕はうなずいて天井を指さした。

不意に女将さんが話に割ってきて男と話し出したので、僕らのあいだの言語外意思疎通は中断した。

「何だか、私たちをどこかに連れてってくれるらしいわ」

「えっ?」

僕はおそるおそるその男に目をやった。はっきりいってあんまりうれしくない。

「アデーレとは知り合いみたいよ。昨日、私たちの隣に座ってたでしょ」

マリーシャに言われて改めて男を見ると、確かに昨日隣に座っていたおじさんだった。暗くてよく見えなかったけれど、おじさんと呼ぶのは失礼かもしれない年齢層だ。おそらくアデーレと同じ年ぐらいで、グレスドール大公よりは若いだろう。それにしても、まさかこんなにこわもての人だとは気づかなかった。長身な上にがっしりとした体躯をしているから、そばで見るとかなり迫力がある。

「なんでアデーレの周りにはこわもての人が集まるのかしら? あの大公は論外だけど、バジルダットおじさまだって黙っていたら結構恐そうに見えるわ」

言葉が周囲に理解されないのをいいことに、マリーシャは言いたい放題に言っていた。

類は友を呼ぶのか、職業柄仕方がないのか僕には判断がつきかねる。確かに、イルファレンに行ってもこのような傾向はある程度認められた。

「で、結局僕らはどこに行くことになるんだろう?」

「さあ? とにかく、朝ご飯を食べましょうよ」

マリーシャが平然と食事を始めたので、僕も籠に盛られているパンに手を伸ばした。それを見た男も食事を始め、女将さんは奥に引っ込んだ。

「マーグス」

男が、突然そう言って親指で自分自身を指した。

「リェイジュン、マリーシャ」

僕はそう言って自分自身とマリーシャを指さした。

「イルファレン? ミルスナディ? ティリール? ユリーツァ?」

僕は何を聞かれているのかわからなかった。これから行く場所か、それとも僕らが来た場所か。

「ニレド」

僕が答えに窮しているとマリーシャがすかさず出身地を言った。

「にれど? ニトフィオリ?」

「イルファレン」僕はテーブル上のミカンを指さした。「ミルスナディア、ユリーツィア、ニレド」
そしてそれより右のコップ、パン籠、パン籠より手前のスープ皿を順に指さした。男はだいたいの位置関係を理解したようだった。

突然背後から女将さんの声が響いた。手にペンと紙を持っている。僕らのテーブルにやってきてうねうねとした線を二本引き、その間からやはりうねうねとした線をいくつも上に向かった伸ばした。

「温泉?」

僕が女将さんを見て尋ねると彼女は大きくうなずいた。

「たぶん川よ。来た時に小川から湯気がたっているのを見たでしょう? 温泉が川になっているのよ」
僕らがこれから行くことになっている場所らしい。僕が自分自身と紙を交互に指さすと、女将さんは笑顔でしきりにうなずいた。僕とマリーシャは顔を見合わせて笑った。