第五章 東へ! 東へ!(1)

第四章 鳩の巣山荘(3)

(2)

 鳩の巣山荘を出てからの道は、それ以前に比べれば実に平坦だった。むろん、実際に平らな道だったというわけではない。今までが雪に覆われた悪路だったことに比べると楽な道のりだったというだけだ。

 僕らは山荘をあとにしてしばらくは針路を東にとり続けた。でも、奇妙な石が乱立している場所を境に狭い脇道に入り、入り組んだ洞窟をくぐり抜けた。洞窟とは言っても、天井は高くて騎乗のまま通行できたし、完全に真っ暗というわけではなかった。洞窟の出入り口付近はぬかるんでいたけれど、道はそんなに悪くない。むしろ、雪道に比べれば非常に楽で、風がない分暖かかった。

 その後、通称まっくら谷 1と呼ばれる細い谷を通って、もう一本の洞窟をくぐった。内部は少し上り坂になっていて、一本道だった。時折どこからともなく光が射し込んでいて、それほど真っ暗な洞窟ではなかった。だけどだんだん暗くなって松明なしでは進めなくなり、洞窟を出た時はもう日が落ちていて冗談みたいにあたりは真っ暗だった。

 出口を出てしばらく夜道を歩くと、突然木がなくなって開けた場所に出た。そこにあった一軒の山小屋(鳩の巣山荘とは比べものにならないくらい小さい)で一夜を過ごし、翌朝には山裾の道を南に向かって歩き始めた。僕には、今いったいどこを歩いているのかさっぱりわからなかった。

 アデーレはここは既に蒼龍山脈の東側で、龍神高原という場所だと説明してくれた。高原の羊飼いは、夏は山小屋で生活し、冬は麓の海岸近くで生活しているらしい。僕らが拝借した山小屋は、今の季節は空き家になっているわけだ。僕らは右手に蒼龍山脈の山並みを見ながら山に沿って南下し、今度はやや下り坂気味の洞窟をくぐった。これは、今までくぐった洞窟に比べ、極端に距離が短かった。洞窟を抜けると、あたりにはまた雪が積もっている。蒼龍山脈西側の新街道に出たのだ。

 僕はつくづく不思議に思うのだけど、なんでアデーレは、いやガルシアはこんな道を知っていたんだろう。初めの洞窟は内部で無数に枝分かれしていて、うっかり曲がる場所を間違えると二度と出られないのではないかと思われるような構造をしていた。それでも、彼女は全く迷いなく僕らの先導を務め、予言通り二日後のお昼にはミルスナディアの北側の山裾にたどり着いてしまった。

 ミルスナディアにつくと、アデーレは真っ先に街の中心にある宿屋に向かった。一階は食堂兼酒場のようになっていて、今はお昼ご飯を食べている人たちで賑わっている。僕らはアデーレの言葉に従い、カウンター脇のテーブルで差し出されたお茶を飲んだ。

 店の主人とアデーレは知り合いらしく、僕らの席から少し離れたところでカウンター越しに何かを話していた。あたりの喧噪で、二人の話の内容は全く聞き取れない。

「ここ、本当にミルスナディアよね?」

マリーシャが半ば呆然として呟いた。

「アデーレが嘘を言ってるのでなければね」

「ずいぶんと早いわよ。途中の宿駅を四つも飛び越しちゃっているわ。トリエラはなくなっちゃったから仕方ないとして、まずクラコス、それにサントニール、エレニアータ、あともう一駅あったかしら」

 僕は地理に疎いので、いったいどれほどの近道をしたのか皆目見当もつかなかった。

「おそらくあのへんてこな洞窟をくぐったことで相当時間を稼いだんだよ」

「稼ぎすぎだわ。少なく見積もっても二日ぐらい早いわよ。それに、へんてこな洞窟なんて言い方は当てはまらないわね。あれは間違いなく東西を行き来するために作られた坑道よ。壁面に何か記号のようなものが書かれていたもの」

 僕はアデーレとはぐれないようについていくのが精一杯で、洞窟内部を観察するような余裕はなかった。もし、そうした記号があってそれらが行き先を指し示す機能があるのだとしたら、アデーレにはそれが理解できたのだろうか。

「かなり便利な道なのに、なんでほとんど誰も使わないんだろう」

「そう、それよ」不意にマリーシャの声が大きくなった。「そもそも、人に知られていないのが不思議だわ。人の手であれを作るのには相当な労力がかかるわけで、そうまでして作った道をそうあっさり放棄するなんて普通に考えればありえない話でしょ」

「いったい誰が作ったんだろう」

「とにかく、作って使っていた人たちがいなくなってしまって、あとから来た人たちにはそれが東に通じる道だとわからなかったとしか考えられないわ」

 あとから来た人たち。それってやっぱり僕ら草原の民のことを言っているんだろう。じゃあ、作って使っていた人たちは?

 ここで料理が運ばれてきたので、僕たちの地理と歴史の議論は打ち止めになった。牛すじ肉と野菜のスープ、チーズとジャガイモのサラダ、ウサギの香草焼き、焼きたてのパン。僕らが八割方食べ終えた頃になって、ようやくアデーレがテーブルに戻ってきた。

「何を話していたの」

「東側の情報を仕入れていたんだ。お茶と焼きリンゴを三つお願いね」

アデーレはマリーシャの質問に適当に答えると、カウンターに向かって追加注文した。

「もうお腹いっぱいだよ」

僕は残っていたパンの固まりをどうにか平らげたところだった。

「いや、心配はいらない。あれは一口食べたらたちまち別腹扱いになる。悪いが私はこれからちょっと出かけてくる。別の宿に知り合いが滞在しているらしいんだ」

「待って、待って。その前に一つだけ教えてよ」

「あの坑道のことか?」

図星だったので、僕は黙ってうなずいた。ちょうど焼きリンゴとミルク入りのお茶が運ばれてきた。

「あれを作ったのは誰? そしていつ頃使われていて、いつ頃使われなくなったの?」

マリーシャが身を乗り出すようにして聞いたけれど、アデーレはしばらくもったいぶるようにお茶をスプーンでかき混ぜていた。

「カンラート王の頃にはとっくのとうにできていただろうな。古くはあの坑道を「龍の腹の下」といっていたらしいが、私も詳しい成立年代 2は知らない」

「えーっ? じゃあ…」

それが本当ならあの洞窟の完成は古王朝時代と言うことになる。

「森の民が執拗に攻撃を受けた理由も実はあそこにあった。当時、アシュレ川以北から直接東に抜ける街道は未整備で、あの坑道が東への入り口だった。森の民と一般に呼ばれているけれど、彼らはむしろ山の民というべき集団だ。おそらく、当時の辰角ヶ岳大噴火もある程度予測していたに違いない」

「じゃあ、あの洞窟を掘ったのは森の民」

「そう。彼らは自分たちの作った道を追手に通らせないために、あえて山越えルートで東へと逃れた。いつか時が来たら、秘密の道を通って自分たちの故郷に戻るつもりでいたのかもしれない。でも、辰角ヶ岳の噴火で、近寄る者はいなくなり、当時の道はとうの昔に忘れられてしまった。つい先ほど通った洞窟の一部は比較的最近―といっても三百年近く前に―修復された坑道だった 3。噴火よりも前に大地震で向こう側の入り口が完全に塞がってしまっていたんだ。東側に直に入れるように、もう一本新しく別の坑道を掘る計画もあったらしい。だが結局、新街道(ニダラーフェシュル街道―原注)の開通で計画は闇に葬られてしまった」

「だからほとんど知られていないのね。でも、私たちは一旦蒼龍山脈の東に出たわけよね?なんで直接海側に出なかったの?」

「大きな樹海があって、それを迂回するのに一苦労なんだ。こちらを通った方が近回りなんだよ」

アデーレは素っ気なく返事をすると大急ぎで焼きリンゴをほおばった。

「近道とはいえ、あんな入り組んだ道を通ろうなんて酔狂な人間はいないさ。よほどあの道に詳しい人間じゃなきゃ通れないよ」

 だいたいにしてアデーレのいう近道は一般の近道という概念を越えたものだった。

「確かにそのとおりね。でも、なんでガルシアのお父さんは知っていたの? 知っていたからあそこに別宅を建てたわけでしょ」

焼きリンゴをお茶で流し込むと、アデーレは口元を手の甲でぬぐった。

「さあ。どうかな」

「そうじゃなきゃ、あんな辺鄙なところに別宅なんて構えないよ」

「借金の形に誰かから取り上げたという線もありうるな。結構汚い商売をしてたらしい。ガルシアの親父に関しては全くいい話を聞かないよ。むしろ悪い思い出話なら山ほど耳にした。悪名高さに関しては私といい勝負だ」

がたんと音をたててアデーレが立ち上がったので、僕らも立ち上がった。

「二人はゆっくりしてて構わないよ。二階の奥に部屋をとっている。もしかしたら夕飯に戻ってこないかもしれないが、二人で食べていてくれ。どんなに遅くても明日の朝にはここに来る」

そう言い残すと彼女は大急ぎで店を出ていってしまった。

 そんなこんなで、僕ら二人は事実上取り残された形になったわけだ。何だかしゃくだったけれど、初めて来た町を探索する気になれなかった。万一ここでアデーレとはぐれたら僕らには為すすべがない。黙って西に引き返すにしても路銀があるわけでもなく、道を知っているわけでもない。僕らはあてがわれた部屋に引きこもり、することもないのでベッドに潜っていた。

 いつともなく僕らは眠ってしまった。夕食の時間になって主人が起こしに来てくれたけれど、アデーレなしの食事は何となく味気なかった。食堂は完全に酒場と化していて、酔った男たちの大きな笑い声はかえって僕らを憂鬱にした。また、そうした場に僕らがいることを不思議そうに眺めている大人たちの視線も気になった。

 なんだかんだいって、僕らは他所からやって来た子どもで、アデーレという媒体がないとその土地にうまくなじめないのだった。いや、はっきりいって居心地が悪いというか、居場所がないような気分になるのだ。アデーレはこのファシュルにおいては完全な異邦人だった。だからこそ逆に流浪の旅人として、どこにいようと違和感なくその土地になじんでしまうことができた。でも、僕らには明らかにニレドなまりがあり、半分以上が東の言葉を話しているこの街では完全に浮いた存在だった。アデーレから離れてみると、今まで彼女の陰で気づかなかった周囲の視線がありありと感じられた。だから変に気疲れしてしまって、僕らは早々に二階の部屋に引き下がった。

 部屋に戻っても、僕らは無言のままベッドに潜り込んだ。あの山荘での夕飯に比べると、内容は豪華なのになんとも味気ない夕食だった。僕はその夜に何を食べたのか全く思い出せない。マリーシャの口数も極端に減ってしまった。

「アデーレ、いつ戻ってくると思う?」

ベッドに入ってどれくらいたっただろう。ぽつりとマリーシャが呟いた。

「さあね。早くても朝にならないと戻らないと思うな。下手したらもう一日ぐらい放っておかれるかもしれないよ」

 そもそも、いつの間にかいなくなっていつの間にかやってくるのが彼女のやり方なのだ。むしろ、今回みたいにずっと一緒にいる方が普通じゃない。下手をすると数日ぐらい置きっぱなしにされる可能性はある。

「ねえ、彼女が会いに行ったのって、男の人じゃないかなあ。きっと恋人なのよ」

「まさか」

はっきりいってそうは思えない。仮に男だとしてもそういう関係の人間ではないだろう。

「だって少なく見積もっても、あの人二五は超えてるでしょ。結婚とかそういう話があってもおかしくないわ」

「なくてもおかしくないと思うよ」

僕はあくびをしながらそう答えた。第一、あんなのもらいたがるような酔狂な男なんているんだろうか。

 料理の腕はいい。家事もできる。でも、腕っ節が強いし、いつの間にかいなくなるし、喧嘩したら絶対勝てないし、おまけに馬術の腕前も相当なもんだし、半端じゃなく古今東西の地理に精通しているから、逃げられたら最後捕まえられない。

「ずいぶんと失礼な物言いね」

マリーシャはいささかむっとしているようだった。

「たぶんね、男が考えるいい女と、女から見ていい女は全然違うんだよ」

「じゃあ、あの人はいい女じゃないということ?」

「僕はああいう人は選ばないね。だって手に負えないじゃないか。いつの間にかふいっといなくなるし、喧嘩したって負けるのは目に見えているし。少なくとも、アデーレは草原の民のお嫁さんには絶対収まらないよ」

「ふふふ。まあそうね」

 再び僕らのあいだに沈黙が流れた。変な時間に寝てしまったこともあって、僕はなかなか寝付けなかった。マリーシャのベッドからも時折寝返りの音が聞こえてくる。たぶん、彼女も寝付けないのだ。それでも朝になるまでに僕らは寝入ったみたいだった。翌朝アデーレが僕らを起こしにやってきた時には、僕は確かに眠っていたのだから。

 翌朝、僕もマリーシャもかなり寝不足気味で朝食の席に引き立てられた。アデーレだけが元気で、今日中に潮風峠を越える気満々だった。

「午前中に出れば日没前にファシュリア入り―すなわち東の玄関口赤堀谷に入れる。そうすりゃこっちのもんだ」

「いったい何がこっちのもんなのよ」

マリーシャはいささか不機嫌だった。まあ、寝不足なのはふて寝してた僕らが悪いんだけど。することもないまま丸一日放っておかれたんだから、その点は僕も同感だった。でも僕らが眠そうにしていて不機嫌なことなど、アデーレは意に介さなかった。

「行けばわかるさ。空気が違うんだよ。なんていったらいいのかな。その土地の空気が持つ匂いのようなものが峠を越えたとたんに変わるんだ。本当に東へ来たんだということが実感としてわかる」

 でも結局その日のうちに、隣町のファリエンテで行程はストップした。お昼を食べたあとにマリーシャが寝入ってしまったからだ。僕らはその街に宿をとり、都合三日間ほどそこに滞在した。翌朝は雨が降ってしまい、峠越えを見送らざるを得なかったのだ。

 東海岸を目前としてはいるものの、今の時期の雨は冷たい。アデーレならともかく、旅慣れていない僕らは風邪をひいて、なおかつこじらせかねないからだ。翌々日も霧で見通しが悪く、道もぬかるんでいるので峠越えは見送り。たぶん、このあたりの気候条件を熟知していたから、アデーレは峠越えを急いでいたんだろう。

 この三日間についてははっきりいって特筆すべき思い出はない。アデーレは宿に居着かなかったし、居たとしても食堂の一角を占めてせっせと手紙をしたためていた。便箋を前にしている彼女は完全に自分の世界に入ってしまっていて、とりつく島がなかった。宿を出た彼女がどこに行っているのかもよくわからなかったし、宿の人たちと彼女のあいだで交わされる会話はもっとわからなかった。

 僕は潮風峠越えを前にして、既に東に来たんだという思いを強くした。僕らの与り知らぬ言葉を話されると、アデーレが別人のように思えてくる。アデーレと周囲の人のあいだで交わされる会話から、僕らはほぼ完全に疎外されていた。それが、本来なら入っていけない世界に、僕らは入っていこうとしているのだという強い実感を呼び覚ましたのだ。

 出発前夜、アデーレは一曲だけ歌を歌ってくれた。題はそのものズバリ「潮風峠」 4。東言葉の歌詞は意味がさっぱりわからなかったけれど、なんともいえず悲しい曲調だった。あとになって聞いた解説では、峠を越えて出かけたまま帰れなくなった男が、東雲湾で帰りを待つ恋人を歌った歌らしい。ずいぶんと軟弱な歌だと当時は思ったけれど、今にして思えば笑い事じゃなかった。現にそんな人はたくさんいたし、これからもたくさん出てくるはずだから。


Notes:

  1. 「王の歌」には王と巫女たちの一行がここを通過する際に日蝕が起こり、あたりが闇に包まれたと記録されている。それ故、ここをまっくら谷と呼ぶようになったという。
  2. 現時点で坑道の存在が確認されていないので、不明と言うほかない。しかしこの言い伝え通りだとすれば、今から一五〇〇年近く前に山脈を貫通する坑道が造られていたことになる。
  3. 龍神高原とミルスナディアを結ぶ坑道のことと思われるが、本書以外にその存在を記したものも修復について記録したものもない。
  4. 商用で東雲湾からエルダリア地方へ出かけた男が、フィオリアの戦乱激化のあおりを受けて、エルダリアで長らく足止めされた際に歌った歌とされる。