(2)へ
「とりあえず、二階に行こう」
アデーレはランタンに火を移して僕によこした。全体が燃えだして持てなくなった薪の火がアデーレによって古びた毛布で消し止められると、あたりはより一層暗くなった。
部屋の反対側にある階段を上ると地下一階に出る。暗くてよく見えないけれど、ここにも何かが積まれているらしいことがわかった。おそらく、鎧や盾のたぐいではないかと思う。その部屋の隅にまたどんでん返しがあり、そこをくぐると螺旋階段が現れる。細くて長い階段を上りきると、やはりここにもどんでん返しがある。
「ずいぶんと遠い二階ね」
やや息を切らせながらマリーシャがぽつりと呟いた。二階分下って三階分上ったのだ。ずいぶんと非効率的な造りになっている。
「昔は一階から直に上がるための梯子もあったんだが、万一のことを考えて暖炉で燃してしまったんだ」
アデーレはこともなげに言うと僕からランタンをとって部屋の中に入った。
部屋いっぱいにベッドが並んでいて、ほとんど足の踏み場がない。まさに寝るためだけの部屋だ。
「奥三つだけ、寝られるようにしてある。いささか湿っぽいが、妥協するしかあるまい」
真っ先にマリーシャが走っていって、壁際のベッドに腰掛けた。
「アデーレが真ん中よ。いろいろな話を聞かせてもらうんだから」
「全く仕方ないな。明日寝坊したら置いていくぞ」
僕は二人に続いて部屋に入り、残った窓際のベッドに座った。アデーレがランタンの火を消してしまうと、窓からかすかに入ってくる月明かり以外何も見えなくなってしまった。
「巫女の大樹の続きを話してよ。別に全部歌わなくていいわ。荒筋だけでも教えてよ」
結局マリーシャだって考えることは同じじゃないか。僕はお株を奪われたような気分になり、沈黙を決め込んだ。
「やれやれ。よりによって一番厄介な部分を注文してきたな。長い長い話だから二人とも布団に潜るんだ。二人のいびきが聞こえてきたらそこで打ち止め」
僕もマリーシャも言われるままに布団の中に潜り込んだ。予想していたよりベッドは暖かく、寝心地も悪くなかった。
「巫女の森は王の軍隊に包囲され、火を放たれた森が最終的に消滅したことは間違いない。しかし、ニレドからファシュルフィオリア周辺で語られているように、本当に巫女が焼け死んだかどうかはわからない」
そのような前置きをした上で、アデーレは今なお東海岸に残る巫女の大樹伝説―向こうでは、柱姫伝説と呼ばれているらしい―の概要を話してくれた。
でも、残念ながら彼女が語ったままをここに記すことはできない。実は、この話についてはあとに何人もの人間から聞き取りをした。だから彼女が何について語り、何について語らなかったのか正確に思い出せない。
話のもとになっている長編叙事詩『王の歌』はイルファレンの小ガルシア(故ガルシア・テイリールの落とし胤にしてアデーレの養子)が歌ったものを書き取ったものがあるので、そちらを参照してほしい。ひとまずここには僕が知っている概要を記しておく。
森は王国軍によって完全に包囲され、巫女一人が森の中に取り残されていた。やがて森に放たれた火は、巫女のいる森の中心部に迫ってきた。そこで巫女は森の主の枝に帯を掛け、首をくくって死ぬことにした。ところがかなり太い枝だったのにもかかわらず、帯を掛けた枝がいとも簡単に落ちてしまった。その枝とともに脱出せよという森の主の意志を感じ取った巫女は、炎に包まれた森を脱出することに成功。枝から一本の杖を作ると、その杖は先端が白く光り始め、常に周囲を照らすようになった。間もなく眠っている龍が起き出してくるだろう。そしてこの地には一本の木も根付かなくなる。知恵ある者は私に従いなさい。あなた方が根付くべき地についた時にはそのしるしを示そう。巫女はそう予言すると、生き残った森の民を率いて蒼龍山脈を越えた。
蒼龍山脈の東側の土地をあちこち転々として長い年月が過ぎた。ある時いつものようにその杖を地面に突き立てて、かつての王国と巫女の森、そしてその杖の来歴について語り始めた。するとその杖からあっという間に枝が伸び出して、とうとう一本の大きな木になってしまった。この地こそ世界の中心であり、王たる者にふさわしい地である。世界の中心を支える中つ御柱はついにこの地に鎮座した。そう言い残すと、巫女は疲れ果てたようにその場に倒れて亡くなってしまった。その大樹は今もイルファレンの北西、柱が丘にある。
「今でもこの伝説は東海岸で根強く信じられていて、立ち入りを禁じている森がある。森の民の長カンラートは、第二二代翠緑王と森の民の娘とのあいだに生まれている。つまり、カンラートの血筋とは王の血筋と言うことになる。東ではまだ王の末裔を名乗る者たちが存在していて、カンラートという姓を名告っているんだ」
アデーレが話し終えた時、マリーシャは既に寝入っているようだった。隣のベッドで、アデーレが身動きするのがわかった。おそらく布団に潜っているのだろう。
「アデーレ」
僕は彼女が寝入る前に、思い切って彼女に話しかけた。
「リェイジュン、まだ起きてたのか」
「一つだけ、聞いておきたいことがあったから」
「下の武器庫のことか」
そのとおりだったけれど、僕はうまく次の言葉を接げなかった。
「何を聞きたいんだ」
「いつ、使うつもりだったの?」
僕の問いに、彼女はしばらく答えなかった。僕が質問を変えようと思った時、彼女はもぞもぞと身を動かして起きあがった。
「何事も起こらなければ、龍の墓場で帝国軍を迎え撃つ予定だった」
何も起こらなければというのは、おそらくガルシアが死ななければということに違いない。
「アデーレがこの武器庫の存在を知ったのはいつ?」
「当然、一三年前だ。それ以前に武器庫に足を踏み入れたことはない。総勢七人でここまで逃れてきたけれど、おそらく武器庫の存在を知っているのは私だけ。ガルシアは私だけを連れて入ったからね」
「その時、ガルシアはなんて言っていたの?」
この質問も、やはり答えが返ってくるまでに時間を要した。雰囲気から察するに、何を言うべきか迷っていたのだろうと思う。
「ある有力筋と交渉が成立して、大幅な人員増強が可能になるからと。うまくいけば龍の墓場で相手方を挟み撃ちできると言っていたな。ただそれ以上の具体的なことはその時には聞かされなかった」
「そうなると、ガルシアは自殺したという噂は全くでたらめだね」
「当然そうだろう」
アデーレは間髪を入れずに答えた。先々まで作戦を練っておいて自殺しなければならない理由なんてあるはずがない。
「おそらく『ある有力筋』が関係しているんだろう。何か身の危険を感じたから、私に詳しい話をしなかった可能性はある。いずれにしても、今となってはどうしようもない。もう寝よう」
彼女が言葉を切っていくらもたたないうちに、隣のベッドから寝息が聞こえてきた。僕は忘れられた武器庫と、それに続く長い階段、ガルシア暗殺の首謀者について考えていたけれどいつの間にか眠りに落ちていた。
今になって思うのだけれど、アデーレは暗殺の首謀者も、彼女を殺害しようとした実行犯もみんな知っていたんじゃないかと思う。とりわけ後者は、黒幕を知っていたわけだから、実行犯がわからないわけはない。それだけでなく、ガルシアが通じていた『ある有力筋』だって当時から知っていたに違いない。おそらく知らない振りを通すことで、いろいろな厄介な問題に巻き込まれることをうまく回避していたのだろう。彼女が去ったあと、フィオリア周辺、いや、彼女の周辺にいた人物が巻き起こしたいろいろな騒動を考えるとその方が納得がいく。もちろん常に騒動の中心にいたのは、アデーレ暗殺の黒幕であると自ら公言していたグレスドール大公だったけれど。
翌朝僕が目覚めた時には、もう隣のベッドは空っぽだった。
「やっと目が覚めたのね。待ちくたびれたわ」
空のベッドの向こうでマリーシャが布団に潜ったまま話しかけてきた。
「アデーレは?」
「私が起きた時にはもういなかった。何だか一人で下に行くのは嫌だったから」
まあ、朝からあの地下武器庫を通るのは誰でも気が進まない。
「ねえ、昨日最後まで話し聞けた?」
「まあ、一応ね」
最終的には話し手本人が話を打ち切って眠ってしまったけれど。
「結局、巫女はその後どうなったの? 森の中で焼け死んでおしまいというわけではないんでしょう?」
マリーシャは相当早い段階で寝入ってしまっていたらしい。
「森の主の枝を持って山脈を越えたんだ。森の民を引き連れてね」
「それで?」
「あるところに来たら、その枝で作った杖から根っこが生えてみるみるうちに木になった」
「そして皆はそこで末永く暮らしました。めでたしめでたし。そういう話だったの?」
僕は少し考えた。あの話は結局のところどういう意味を持つのだろう。めでたい話なのだろうか? だとしたらいったい誰にとってめでたいのだろう。森の主に仕えるという使命は果たしたけれど、巫女は幸せだったのだろうか。
「まあ、大筋で言えばね」僕はマリーシャの方を向いた。「結局その時巫女はここが王様の治めるべき土地ですと祝福の言葉を残して死んじゃうんだけど」
マリーシャは少し目を見張ると黙って僕を見つめた。たぶん、僕と同じことを考えているに違いない。
「全然めでたくないわね。でも不思議ね。そんな話聞いたことないわ。そもそもあの話に続きがあること自体知らなかった」
「東にしか伝わってない話だって言っていた。なんでも森の民の長は王の血を引いていて、まだ東には王の末裔がいるらしい。きっとそこだけに伝わってる話なんだよ」
僕は黙って、山脈を越えた巫女と王の末裔たちのことを考えた。そして、当時森が生い茂っていたというニレドのことを考えた。森の焼ける匂い。武器を持った軍勢。戦火を避けて東へと脱出する一行。彼らは本来敗れた者たちのはずだった。でも最終的にフィオリアにおける王の系譜は断絶し、傍系であったカンラートの血筋が王の血を継ぐものとして残った。
結局のところこの話は東に住む人たちのものなのだ。いや、文字どおり王の歌だ。山脈の西側では終わってしまった話が、東側ではまだ生き続けている。僕はその事実を東で何度も目の当たりにしたし、今なおその事実が持つ意味と重みを感じ続けている。アデーレが滅多に王の歌を歌わなかったのは、決して出し惜しみをしていたわけではないのだ。それは西側では既に終わってしまっていたお話で、語られるに値するものではなかった。たぶん、ただそれだけのことだ。
「とにかく下に行きましょう。早いところ東に行かなくちゃ。私たち、きっと巫女の一行が通った道を歩いているに違いないわ」
マリーシャはベッドから跳ね起きて靴を履いた。
「まさか。ずいぶんと大昔の話だし、当時の道なんか残っちゃいないよ」
「いいえ。そうとも限らないと思うな」
「なんで?」
僕はもぞもぞとベッドから起きあがり、神妙な顔をして立っているマリーシャを見つめた。
「だってこの道は『火の山古道』っていうじゃない。少なくとも、当時あった可能性が一番高い道だと思うのよ。それに、ニレドから直接東に向かうなら、ニダラーフェシュル街道よりこちらを通る方が筋が通ってるわ」
マリーシャの推論があながち間違いではないと判明したのは、東から西に帰る途中でのことだった。
「お腹減ったよ。早く下に降りよう」
あたりには何となくいい匂いが漂っている。おそらく、アデーレが朝食の支度を始めているのだ。僕は靴を突っ掛けて足早にベッドから離れた。朝の空気は冷え込んでいて、早く暖炉の火にあたりたかった。
「待って」マリーシャが突然僕を呼び止めた「ねえ、あそこ、あそこ」
「えっ、何?」
振り向くと、彼女はしきりにクローゼットを指さしている。
「あそこから下に降りられるんだわ」
僕は履きかけの靴に半ば足をとられながらそのクローゼットに近づいた。確かに、床の一部がはずされていて、その下には一階の床が見える。クローゼットには場違いなほど丈夫そうなフックがあり、そこからロープが下がっていた。おそらく、アデーレはここから降りたのだ。マリーシャは穴に頭をつっこんで下の様子を探っていたけれど、すぐに顔を上げて僕の方を見た。
「ねえ、このロープで下りられるかしら?」
「仮にアデーレがこれで降りているとすればね。少なくとも、大人がぶら下がっても切れなかったってことの証明にはなるだろうけど」
「アデーレ!」
僕の話をしまいまで聞かずに、彼女は再び穴の中に頭を入れて叫んだ。
「アデーレ、このロープ使える?」
「大丈夫。そう簡単に解けないように結んである」
やや遠くからアデーレの声が響いてきた。
「私が先に下りる。いいわね」
マリーシャは僕の返事も待たず、スルスルと階下へ下りていった。彼女が地面に下りてロープを放したことを確認し、僕もそのあとに続く。ちょうど壁に沿うようにロープが下がっているので、思っていたよりは下りやすい。
下りたところはちょうど倉庫の脇だった。階下では既に暖炉の火が燃えていて、テーブルにはパンが人数分並べられてあった。
「起きてこないから先に食べてしまおうかと思っていたんだ。早く顔を洗って来なよ」
アデーレはまるで背中に目でもついているかのように、こちらを振り向きもせずに言った。僕が朝寝坊なことはすっかりお見通しなのだ。
勝手口から外に出ると、空は雲一つなく晴れ渡っていた。昨日とは雲泥の差だ。僕はマリーシャがのぞき込んでいる井戸の方へ歩いた。どう見ても使われていなさそうな井戸だ。致命的なことに釣瓶というものが存在していない。
「その井戸は使われていないんじゃないの?」
僕がマリーシャの背に話しかけると、彼女はびっくりしたようにこちらを振り向いた。
「脅かさないでよ。いるならいると言って頂戴」
「別に脅かすつもりなんかないさ」
むしろマリーシャの驚きように僕が驚いたぐらいだ。
「きっとこの井戸も抜け道になっているに違いないわ。全く水がないし、音の響き方も普通じゃないもの」
「どうせあの地下室のどこかにつながっているんだ。とにかく早く戻ろう。お腹減ったよ」
僕らはそこから少し離れたところにある井戸で顔を洗って小屋に戻った。
僕らは旅の途上にある便利な山小屋としてあの山荘に滞在したのだけれど、おそらくあそこはそんなのんきな場所ではなかったはずだ。統一戦線の事実上の隠れアジトであり、通信基地であった可能性は高い。「鳩の巣山荘」と呼ばれたのは、伝書鳩の中継地点だったからに違いない。
そうでなくてはセルクリッド戦のあと、ガルシアがわずかな手勢だけでここを目指した理由がわからない。しかも大敗を喫した上に大隊からはぐれてしまった状態でだ。ここに戻ればどうにかなるという算段がなければ、そうした危険は冒さなかったはずだ。
そして、アデーレ存命中は僕らには想像もつかない形であの小屋は機能し続けていたはずだ。僕らが小屋をあとにする際、彼女は二階から垂らしたロープを取り外し、片手で天井の板を移動させて通用口を隠した。今にして思えばなかなか見物だった。片手で天井にぶら下がって、もう片方の手でそこそこ重さのある蓋を閉めたのだから。なんだかんだ言って彼女の身体能力は高かったのだ。他の階への通用口を塞いでおくことで、まだ守られている秘密があるに違いない。僕らが垣間見たのはあの山荘のほんの一部分に過ぎない。他に彼女が話さなかったことは山ほどあるのだ。
そうだ、いくつもある隠し扉や隠し部屋以上に、あの山荘には多くの謎がつきまとっている。そもそも僕には、ガルシアのお父さんがなぜあんな場所に別宅を構えたのか今もってよくわからない。トリエラはニダラーフェシュル街道の要所で、いわば東への玄関口だ。東へ商用で赴くだけなら、わざわざ北上して火の山古道をとる必要があるとは思えない。
もしかしたら、僕なんかにはわからない特別な事情があったのかもしれない。でも、今となっては何もかもがわからなくなってしまった。ガルシアのお父さんもガルシアもこの時点で死んでしまっていたし、これから間もなくしてアデーレもいなくなってしまった。
そして、僕らもこれ以降二度とこの山荘を訪れることはなかった。いや、来たくても来られなかった。イグナシオ王元年の辰角ヶ岳大噴火で、このあたりはみんな火砕流の下敷きになってしまったから。