第四章 鳩の巣山荘(1)

第三章 悪魔と魔女の晩餐(3)

(2)

 アデーレにはいろいろな話がついて回るけど、とにかく東海岸での彼女のありようを抜きにしては彼女について語ったことにならない。僕らはそこでアデーレの様々な側面を目の当たりにすることになった。僕が、アデーレはいまだに存命でどこかで歌を歌っているかもしれないと思うのは、偏にここで垣間見た彼女の意外な一面による。

 アデーレ、そしてシャニィという名は少なくともいくつかあるうちのたった二つの名前に過ぎない。僕はそう思っている。東海岸で出会ったほとんどの人間は、僕らの与り知らぬ言葉を話していた。そして誰一人として彼女をシャニィとは呼ばなかった。雰囲気から察するに、東海岸の人間は彼女が「魔女」であると認識してはいなかったと思う。

 また、明らかに彼女と同族と思われる人種に接触する機会があった。彼らは一様に礼儀正しく、彼女に対していくばくかの敬意を抱いているようだった。そしてたいてい彼女を「クリーダ 1」と呼んでいた。彼らがどのような経緯で彼女と知り合い、どのような関係を持っていたのか全く想像はつかない。少なくとも一部のケディア人とは何らかのつながりがあったことは確かだといえる。

 アデーレが去ったあとに残された反故文(特殊な文字らしく、今もって誰一人完璧に解読できない)から推測するに、故国の誰かと音信を通じていた可能性も捨て切れない。何より彼女には、そこそこの教養といくつかのパイプがあったことが行動をともにするうちに明らかになった。要するに、ケディアの魔女討伐軍に捕らえられたということが、直接的に彼女の死に結びつくと言い切れぬ面があるのだ。

 むろん、既に処刑されて鬼籍に入っていると考えるのが真っ当だとは思う。だが、古い歌にあるように死して再び蘇る可能性はあるはずだ。彼女が真の魔女であるならば。

 とにかく、彼女は僕らとの約束を忘れることなく、僕とマリーシャを東海岸の港町に連れていってくれた。それも、グレスドール大公の要請を突っぱねて。あれは端から見ている分にはなかなかの見物だった。

 当初大公はアデーレを伴ってユリーツィアへ向かうつもりでいた。既にバジルダットを通じての交渉は決裂しており、そうであるからには大公自身が直接現地へ赴かざるを得ないようだった。その際(大公自身に有益とは思えないのだけれど)大公はアデーレを連れていくことにこだわったのだった。でもこの件に関しては完全にアデーレが突っぱねてしまい、話は平行線をたどった。そしてしまいには、力業で大公を説き伏せてしまった。

「我々が手を結んだと受け取られてしまっては、ユリーツィア側の、とりわけハルシエル殿の警戒心をあおるだけでしょう」
そう、アデーレは言った。

 それはよく晴れていて冬にしては暖かい日の午後だった。どうしたいきさつだったか忘れたけれど、僕らはお茶の時間に暖炉脇で何かの話をしていた。その時、突然グレスドール大公が一人で現れて、アデーレにユリーツィア行きを要請したのだった。

「警戒したい奴にはさせておけばよいではないか。それよりこちらとしては、そうなった時にあなたの義兄上がどのような反応をするかに興味がある」

是が非でもアデーレを連れていきたいのだということが、大公の雰囲気からありありとわかった。どことなく、焦りから来る鼻息の荒さのようなものが感じられた。

「はははは。」

でも、アデーレは余裕綽々で大公の言葉を一笑に付してしまった。

「義兄を試そうとお考えでございますか。妹としてはお勧めはできかねます。あれは頭の足りない男です。試されていることに気づかず、むきになるだけでございましょう。そうなった時には逆にハルシエル殿が我々を試されるかもしれません」

 大公の表情がにわかに鋭くなった。おそらく、彼女の言葉の何かが彼の盲点を突いたのだろう。

「我々の何を試すというのだ。試されて困ることなど私には思いつかぬ。我々のあいだに隠し事はない。なぜなら、正鵠ぬきたる魔女に見えぬものはなく、知らぬことはないのだから」

「そうです、だからこそ私たちの結束は砂糖菓子よりも脆いわけです。仮にハルシエル殿が私に然るべき地位を提供すると仰せられたら、私がその任を拒否することは不可能でしょう。そして祭り上げられた私がたどる末路は火を見るよりも明らかというものです」

 僕にはその時彼女が言っている意味がさっぱりわからなかった。でも、だいぶあとになって、彼女がいなくなってからその真意がよくわかるようになった。場合によっては、彼女を北側に差し出すことで当座の争いを回避しようとする動きが南側にあったに違いない。

「そんなことはさせない。私はそれ以上に有効な魔女の使い方というものを心得ている」

「さあ、如何でしょうか。場合によっては、誰かがあなたの側につくかもしれません」

 アデーレが含みを持たせた返答をすると、とたんに大公は黙ってしまった。何か大公の弱みを突くような一言だったのだ。

「いずれにしても、私たちの契約は交渉結果を待つという一点のみでございました。そして既に結果は出ているのです。たったそれだけのことで私たちが手を結んだと見なされては、大公にとって不利益以外の何物でもございません。もともと我々は犬猿の仲なのですから、今後も犬猿の仲であることにしておいた方が便利にことが進むに違いありません」

 グレスドール大公たちがユリーツィアへ発った翌日、僕らも東海岸へと出発した。いや、正確には水沸谷より北にある通称火の山古道 2という街道を目指した。そこを通って蒼龍山脈を横断し、東雲湾へ南下するルートだ。

 残念ながら彼女の飛龍は寒さが苦手らしく、ここ最近谷に寄りつかない。また、僕やマリーシャは雪山どころか雪道さえ足元が怪しい。旧街道(原注―南海道)は歩きやすいけれど、ユリーツィアを通過しなければならないし、遠回りになる。よって、冬でも比較的雪が少ない旧旧街道を馬で行くことになった。冬でなければ、水沸谷から山脈の向こうに出る直越え経路もあるらしい。とはいえ、山道に慣れた大人でさえ危険な道らしい。僕はその道を通らなくて済んだことには今でも感謝している。

 そうやって消去法で道を選んだわけだけれど、豪雪地帯で比較的雪が少ないのであって、その道は決して楽な道とはいえなかった。何しろ古道と呼ばれるだけあって道幅はさして広くない。場所によっては道なき道を行くという方がふさわしい。おそらく、雪に慣れた谷育ちの馬でなければ行程はもっと困難を極めたはずだ。それでも、第一日目の夕方には、目標としていた山小屋にたどり着いた。

 東海岸についてからも、僕たちは多くのものを見たし、多くのことを知った。でも現地ではアデーレとゆっくり何かを話すということはなかった。彼女はやることがたくさんあったみたいだし、会うべき人間もたくさんいたようだった。何より彼女を知る人間が多く、皆一様に彼女と何か話をしにやってきた。

 グレスドール大公が居着いて以来、こうして話すことはずいぶんと久しぶりであり、またこれ以降二度とこのような時間が我々のあいだでもたれることはなかった。だからちょっと脇道にそれるかもしれないけれど、ここ鳩の巣山荘での話を、ここの冴えた空気を、彼女の話す調子を、可能な限りここに再現しておきたい。

 そこは街道から若干山道を登った場所にある結構立派な山小屋だった。むろん馬屋も備えていて、馬五頭ぐらい余裕で入れておけるぐらいの広さはある。

「これ、本当に山小屋なの?」

到着後、開口一番にマリーシャがそう尋ねたのも無理はない。小屋と呼ぶには作りが立派すぎるのだ。

「ははははは。もちろんそもそも山小屋だったというわけではない。ただ事実上の所有者がいなくなったから、旅人が共同で使ってるんだ。食料と薪さえ持参すればさほど居心地は悪くない。さあ、馬をつないで我々も食事にしよう」

言われるまま馬屋に馬を連れていくと、そこにはしっかり飼い葉が備えてある。

「ちょっと待ってよ。本当は誰かの家なんじゃないの?」

僕はびっくりしてアデーレに詰め寄った。

「大丈夫。とにかく、私がいる時は私の家なんだ」

 そこは想像以上にきちんとした家だった。古びてはいるけれどしっかりした作りのテーブル、背もたれのついた椅子、食器が入っているらしい小さな戸棚。小屋というよりちょっとした別荘のように見える。階段は見あたらないが、外観から察するに、二階あるいは屋根裏部屋があるはずだ。

 確かにこの街道を行き来する旅人が利用するらしく、暖炉の中には燃え残った薪があった。彼女は持参した粗朶をその中に放り込み、燃えさしの薄い木片を焚き付けにしてあっという間に火をおこした。

「裏手にある井戸で水を汲んでくる。鍋も食器もあることだし、簡単なスープぐらいなら作れるだろう」

 アデーレは食器棚の中を検分すると、暖炉脇に置いてあった桶を持って外に出ていった。

「ここ、きっと誰かの別荘よ」

「そうだね。僕も同じことを考えた。彼女の知り合いの別荘なのかなあ」

「彼女にそんな知り合い、いるのかしら?」

 今となっては何の躊躇もなくいるだろうと答えるけれど、その時僕らは彼女の人脈の広さを知らなかった。

「でもとにかく、彼女は何回かここを利用しているんだよ。どこに何があるかみんな把握しているようだし」

「それにしても、ここは旧旧街道なわけでしょ? いったいこんなところに誰が別荘を建てると思う? 普通の旅行者だったら新街道を通るわ。ここを通るのはたぶん限られた人間よ。よほど昔から東海岸とこちら側を行き来している人種に限られるわ」

 確かにマリーシャの疑問はもっともだった。ほとんどの人間は新街道―いわゆるニダラーフェシュル街道を通る。僕のような地理に疎い人間だって東海岸に出る際はニダラーフェシュル街道を通ることぐらい知っている。一〇年前のトリエラ陥落以降、この新街道が往時の活気を失っていると耳にはしている。でも、新街道だけあってこちらより圧倒的に道が整備されている。ただし、豪雪地帯ではあるけれど。

「二人とも、のんびりしてないで荷物をほどくんだ。適当な皿にパンとチーズを並べてよ」

鍋を頭に乗せ、桶を抱えてアデーレが戻ってきた。

 僕らは慌てて荷物をほどき、食料をテーブルに並べた。干しぶどうと干し杏入りの堅焼きパン、チーズ、薫製の鶏肉、保存庫から頂戴してきたリンゴ。旅行中の食にしては結構豪華だ。

「まさかそれ全部今日食べちゃうつもりなの?」

とりあえず持ってきた食材をすべて並べようとしていた僕に、マリーシャが待ったをかけた。当然すべて食べてしまっては明日以降の分がなくなる。

「明後日の午後にはミルスナディアの町につく。明日一日分と明後日の朝食分ぐらいは食糧を確保しておいた方がいい」

僕らに背を向けたままアデーレが話に割って入った。

「えっ? ニダラーフェシュル街道の中間地点でしょ? たった二日でもうそんなところに行き着けるの?」

マリーシャがびっくりしてアデーレの方を振り返った。

 僕はさっぱりわからないけれどどうやらマリーシャはおおよその位置関係を知っているらしい。

「一部の人間にしか知られていない、ちょっとした近道があるんだ。とにかく、道さえ知っていれば古道を使った方が早く東海岸に出られる。雪に煩わされることもないだろう」

「それって…どんな近道なの?」

僕はおそるおそる尋ねた。あの水沸谷に行った時のような恐ろしい近道はもうごめんだ。

「高いところは通らないよ。その点は心配ない。ただ、ちょっと龍の腹の下 3をくぐるんだ。私とはぐれない限り問題はないだろう」

「龍の下をくぐる?」

僕とマリーシャは思わず顔を見合わせた。

「そう。ああ、悪いけどスープ皿を三つとってくれ。スプーンと一緒に、そこの桶の水で軽く洗って。つまりね、山の下をくぐるのさ。あのあたりには大昔に掘られた洞窟が無数にあるんだ。そのうちのいくつかは互いにつながっていてね。うまく通りさえすれば山三つ向こうの新街道の脇に出るようになっている。最近ではこの道を知っている人間もあまりいないようだが、かつては商隊が通る、れっきとした公道だった」

 僕はマリーシャと顔を見合わせた。山の下をくぐる道なんて全く聞いたためしがない。 

「そんなこと、誰から聞いたの?」

「ガルシアだよ。私はあの人について一度あそこを通ったし、今までも何度も通っている。ここも、もとはといえばガルシアの親父が第三の拠点にしていた場所だ。つまり私がいる時、ここは私の家なんだ」

 アデーレは作ったスープを素早く盛りつけ、テーブルの上に並べた。ガルシアのお父さん? 第三の拠点? 全く初耳だった。マリーシャもそうした事情は全く知らないようで、黙ってアデーレが話すのを待っている。

「ガルシアの親父は武器商人だった。自身もよく東西を行き来した。ここは商用で東に行く際の拠点として使っていた別宅だよ。確か「鳩の巣山荘 4」とかそんな名前だったと記憶している。ご存じのとおり戦乱で何もかも、自身の命も、家族もみんな失った。唯一残ったのがこの家なんだ」

 アデーレは軽くため息をつくと感慨深げに家の中を見回した。おそらく彼女の目には僕らの知らない過去の幻がありありと見えているのだ。

 考えてみれば、彼女が進んで僕たちにガルシアの話をしたのはこれが最初で最後だった。おそらくそれはあの場所が彼女にとって特別な場所だからなんだろう。


Notes:

  1. おそらくケディア語の「クリーデャ」と思われる。もしそうだとすれば一般に高貴な身分の女性に対する呼称であり、彼女もそうした家柄の出と言うことになる。八章で小ガルシアが推測していることも、あながち的はずれではない可能性が高い。
  2. 火の山とは辰角ヶ岳を指しており、その南麓を東西に走っていた道があったようである。
  3. 龍とは蒼龍山脈を指すらしい。東西を行き来するために掘った坑道を龍の胎内を通るなどと表現する用例はイルファレンに伝わる古歌の中に散見される。しかしそうした道は伝承の範囲にとどまっており、存在はいまだ確認されていない。
  4. のちにリェイジュンが推測するとおり、統一戦線の通信補給基地として機能していたと思われるが、正確な位置は未詳。