第三章 悪魔と魔女の晩餐(3)

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第四章 鳩の巣山荘(1)

「ところでシャニィ殿」

「アデーレとお呼びください」

本名で呼びかけられたアデーレは、フリオの言葉を遮った。

「しかし…その名前は」

フリオはためらいがちに、言葉を振り絞るように言う。まあ、そりゃそうだ。初対面の相手に、「魔女」なんて呼びかけることは普通しない。

「フリオ、気にすることはない。この女は真実魔女なのだから」

グレスドール公は悪びれもせずに言った。

「さようでございます。わたくしからその名は失われたのです。いや、あなた方によって剥奪されたというべきでございましょうか」

「そのとおりだ。我々は魔女を魔女たらしめた悪魔であるといえる」

グレスドール公はようやく目の前にある若鶏の香草焼きに手をつけた。だが、明らかに食べようとする意図はない。鳥肉を一通り解剖すると、まっすぐアデーレを見据えた。

「大公は、魔女は悪魔と手を組む気はないのかと仰せだ」

横にいたフリオが口を開いた。

「ははははは。私と手を組んでどうなさるおつもりです」

「魔女が我々につくというのなら、少なくとも魔女の義兄上 1は我々につくだろう」

大公は彼女に据えた視線を動かさず、言葉を選ぶようにゆっくりと言った。

「あんな男一人が一体何の役に立ちましょう。それよりも大公は私の首を持ってユリーツィアに向かわれるべきです」

「おもしろい。ずいぶんな嫌われ者のようだな」

「大公の悪名高さにはとてもかないますまい。私が養父を凌駕することができたものは、ひとえにこの悪名高さだけでございましたが」

僕は食べるのを忘れて、この平行線をたどるやりとりに見入っていた。そして改めてアデーレという人物がわからなくなった。少なくとも彼女の言葉はグレスドール大公を圧倒している。そのやり方は極めて丁重かつ慇懃だった。しかも彼女の言葉には大筋で見れば嘘偽りはない。彼女は彼女なりに本心を語っているのだ。彼女が人に対してこのような態度をとりうるということが、僕にとっては新鮮な驚きだった。

「率直に言って、わたくしの名前を出さず、直にユリーツィアと交渉された方が話は早いかと存じます」

確かにそうだった。いったい何について話しているのかわからないが、僕だってそう考える。

「できうることならあなたの首を持って、と」

「そういうことです」

フリオの言葉にアデーレは即座にうなずいた。

「そうすればこの交渉人バジルダットもたやすく大任が果たせましょう」

「ぐっっ、ごほっごほ」

いきなり自分の名を呼ばれバジルダットはむせている。やがて、咳が止まらないので彼は食堂を出ていった。

「で、魔女は自らの首の代償に何を要求するのだ?」

大公はもう食べる気が失せているようだった。腕を組んで椅子にもたれかかり、相変わらず厳しい視線をアデーレに注いでいる。

「なんにも」

彼女がそう断言するのを僕のはうがはらはらして聞いていた。この男ならやりかねないだろう。今すぐ彼女の首を切断しかねないような雰囲気を持った奴だ。

「魔女め。何を考えている」

たまりかねたフリオが声を荒げた。

「はははははは。私の首をとることで、あなたの悪名高さは鰻登りになるでしょう。ユリーツィアの人間はあなたを勇者と讃えるかもしれません。テイリール公もあなたを見直されるに違いありません。ですが彼らもやがて自らの愚かさに気づきましょう。帝国軍がディラスケスを越えた時に」

「なるほど。魔女は我々に予言の一部を披露したわけだ」

フリオがはっとしたように大公を振り返った。そして大公同様、彼もじっとアデーレを見つめた。だがアデーレは口元に笑みをたたえたまま、無言で大公を見返している。

「魔女が正鵠ぬきと呼ばれるいわれを私も知ってはいる」大公はゆっくりと話を続けた。「それは弓にあるのでもなく、並外れて強靭なその肉体にあるわけでもない。発する言葉そのものにあるのだ。魔女の言葉は常に正鵠を貫く」

「それで大公は私を消そうとされた」

アデーレは大公の言葉を遮った。僕はびっくりして向かい合った二人を交互に見た。そしてマリーシャと顔を見合わせた。僕たちは今、過去の封印されていた謎の一つに対峙しているのだ。

「そう。あの時、魔女を殺せなかったことを私は今、非常に後悔している。そしてできうることなら、今ここでその首を手に入れたいと考えている」

「その願いは叶えられましょう」

大公は口を歪めた。いや、笑ったのだ。どう見ても笑っているように見えないのだけれど。

「その首は私のために来し方と行く末を語ることができるだろうか」

「来し方はいくらでも語りましょう」彼女は席をたった。「ですが行く末は語りませぬ。私の中の魔女の血が命ぜぬ限りは」

彼女はテーブルを離れ背後の戸棚から果実酒を取り出した。そして、暖炉脇にあった大きな斧を片手で難なく持ち上げ、こちらにやってきた。テーブル上の食器の隙間を縫うように斧を打ちつけると、そのその隣に果実酒の瓶をおいた。

「はははははは。いい度胸だ。上様。魔女の首をいただきましょう。きっとこ奴の義兄も地団駄を踏んで悔しがるでしょう。いつか自分がとるつもりでいたのにと」

フリオは腹を抱えて笑い出した。そして「いつか自分がとるつもりでいたのに」と繰り返して言った。

僕は完全に混乱していた。いったい誰が本当に彼女の味方なんだ? この男は過去に彼女を殺そうとしたんだ。そしてヒジュロスさんも彼女を殺そうとしている? アデーレは黙って大公を見据えていた。大公も彼女以上に鋭い目で彼女を見返していた。だが、すぐに大公は口元を歪めた。

「おもしろい」

大公は音をたてて立ち上がった。僕はただ息を飲んだ。マリーシャも同じように固まっていることが振り向かずともわかった。

「いいだろう」大公は興奮を押さえるかのように一呼吸おいた。「交渉はそちらに一任する」

アデーレの表情がゆっくりと笑顔に変わるのを僕は息を飲んで見守っていた。花が開くようにゆっくりとはころびていく口元。それでも、目だけは、あの目の鋭さだけは変わらない。太古の魔女もかくありなんと思わせるその表情に僕は見入っていた。

「フリオ。新しい協力者に乾杯だ」

大公は果実酒の栓を開けると、アデーレに杯をとらせた。

「きっと後悔なさるでしょう。あの時魔女の首をとっておくべきだったと」

「それも魔女の予言として覚えておこう。そしていずれ魔女の首はいただくつもりだ」

アデーレは大公から果実酒の瓶を受け取ると、大公とフリオの杯を酒で満たした。

「悪魔と魔女の交渉成立に」

アデーレがそう言うと三人は互いにグラスを打ちつけあった。よくわからないが何かの取り引きと交渉が成立したのだ。僕は気疲れしてしまって食事どころではなかった。もう食べる気がしない。

咳が落ち着いたのか、バジルダットが再び食堂に姿を現した。食卓上の斧を不思議そうに眺めている。確かに、あのやりとりを聞いていなければ、どうしてそんなものがここに乗っているのかわからないだろう。

「バジルダット。あなたの仕事は残念ながら当分続きそうだ。おかげで、私の首はつながったままということになったよ」

「けっ。だから言ったじゃないか。どのみち結論はそれしかないって」

バジルダットは席につくと、食べ残しを黙々と食べ始めた。

「そういうわけだ。我々は互いに悪名高いのでね」

「やれやれ。大公殿。それは決して自慢にも言い訳にもなりませんな。この魔女一人でもひどく難渋しているのですから。悪魔と魔女が手を組んだとそれは大騒ぎになるでしょう。恐れながらわたくしめには犬と猿が手を組んだように見えますがね」

確かにそうだった。この二人ではどう見てもうまくやっていけるように思えない。

結局このあと、交渉のテーブルは酒宴のテーブルに変化した。あきれたことにフリオとマリーシャは料理をきれいに平らげている。対してグレスドール大公の皿は完全に手付かずといってよかった。アデーレが半分、バジルダットが八割方食べたところを見ると、バジルダットは参っているといえないことになる。

僕らは早々にバジルダットの家を追い出され、マーサ叔母さんのところに連れ戻された。どうやら僕らの役割は、料理に毒が入っていないと示すことにあったようだが、何の意味もなかったらしい。

その後大公は真っ先に寝室に引き取ってしまい、結局ほとんど料理に手をつけなかったそうだ。あとからバジルダットに聞いたところによると、大公は終始不機嫌だったらしい。それがいったい何に起因するのかバジルダットは測りかねているみたいだった。

きっと不機嫌というわけでもなかったのだろう。もしかしたら上機嫌だった可能性も、たぶん、ありうる。

それから幾日もたたぬうちに、バジルダットはユリーツィアへ出かけていった。悪魔と魔女との同居に嫌気が差したのか、二人がせかしたのかわからない。主のいない家は事実上悪魔と魔女の巣窟と化したわけだ。二人はバジルダットの交渉結果が出るまで南に行かないことに決めたらしく、ずっと居座り続けていた。

谷はいつもと変わらず平穏であったが、住人の関心がその家に集中していることは明らかだった。僕の部屋からはその家に出入りする人、家の前を行き来する人が丸見えだったから。魔女が連れてきた悪魔の顔を、一目拝もうとする輩があとを絶たないことがよくわかったのだ。

この谷の人間はアデーレに対してかなり好意的だった。しかし、グレスドール公に対しては、むきだしにこそしなかったが敵意を抱いている者が多かった。というのも、ここには元ニダラーフェシュル住民が何人かいたし、生前のガルシアと親しかった人間もいた。だからかつて敵だったものが突然やってきて居座っていることに腹を立てないわけがない。アデーレという防波堤がなければ、石どころか剣や槍が投げつけられたっておかしくなかったかもしれない。だから大公にとってここは必ずしも居心地のいい場所ではなかったはずだ。それにもかかわらず彼は居座り続けた。理由はよくわからない。単に他所へ行くのが面倒だったのかもしれない。

とにかくそのせいで僕らはあまりアデーレと話せなくなってしまった。主なき家の管理はアデーレがすべてこなした上で、厄介このうえない客の相手をしなければならないからだ。僕らは窓から彼女を同伴して散歩に出る大公を幾度となく見送った。どんな会話を交わしているのか詳細はわからなかったが、雰囲気から察するに、あの「悪魔と魔女の晩餐」の続きが繰り広げられている公算は大いにありえた。

僕とマリーシャは、あの晩餐で交わされた内容について議論した。お互いに手持ちの情報を交換しあいつつ。でも結局そのほとんどはよくわからないという結論に落ち着いた。なぜアデーレは大公を連れてきたのか。彼女にとって本当の味方は誰か。僕の父は本当に馬上逆立ちができたのか。とりわけ僕らのあいだで盛んに意見を交換したのは、正鵠ぬき第四の由来についてだった。

アデーレには本当に予知能力があるのか。本当に帝国はディラスケスを越えるのか。仮にそうした能力を持ち合わせているのなら、どうしてガルシアの死に始まる一連の出来事をうまく処理できなかったのか。

僕はアデーレに予知能力などなかったのではないかと思う。それはおそらく彼女が半ば伝説化される過程でついた、他愛もない尾ひれの一つに過ぎない。そして彼女自身これ幸いとその尾ひれを身にまとったのだ。

確かにガルシアの相談役のようなことはしていたのだろう。でも予知能力があるなら、なぜテイリール陥落の前に警戒しなかったのだ? なぜケディアの侵攻をもっと厳重に警戒しなかったのだ? これらは彼女が予知能力を持たないごく普通の人間であることを示している。人は彼女を神格化したがる。でも彼女は少し変わったところはあるがあくまでごく普通の女なのだ。

バジルダットの家からは、夜になるとしばしば弦を爪弾く音と歌声が聞こえてきた。でも、どれも知らない曲で、言葉もわからない。曲風から察するに、おそらく北方古歌謡と思われる。僕とマリーシャは何度も聞きにいきたい誘惑に駆られたが、階下では叔父さんたちが目を光らせており、とても向こうへ行くことを許してくれそうになかった。だから二人で寒さに震えつつ、部屋の窓を開けて彼方から響いてくる歌に聞き入った。

僕らはそうして何日ものあいだ、大公が立ち去るのを待ち望んだ。でも、期待に反して彼はすっかり谷に居着いてしまった。そのため、僕らは幾日もあまりばっとしない退屈な日を過ごしたのだ。別に叔父さんや叔母さんが話し相手にならないと言うわけではない。ただアデーレつきの生活にすっかりなじんだ僕らには、何となく物足りないものを感じたのだ。

彼女はぶっきらぼうで多少やかましい人間だったけれど、人を退屈させないという点においては誰にもひけをとらなかった。家事の合間や、夜寝る前の時間など実にいろいろなことを聞かせてくれたし、多くの歌を歌ってくれた。きっと三日歌い続けたってネタは尽きないだろう。そしてその稀代の語り手であり、歌い手であるアデーレは今や大公の支配下にあるのだった(よって僕らにとって大公は「悪い人」になった)。

犬と猿のような二人が、一つ屋根の下でいさかいなく生活していることを僕らは不思議に思った。いや、僕らだけではない。谷の人間も非常に不思議がっていた。二人が実はできていると考える人間もいたが、散歩する二人の様子を見ていればそんな考えは馬鹿らしくなってくる。常に穏やかに平行線な関係というのがふさわしい表現である。

どれぐらい待っただろう。ついにバジルダットが戻ってきた。交渉決裂という凶報を携えて。彼が帰ってきてすぐ、僕ら二人は再び彼の家に呼ばれた。そこで行われた魔女、悪魔の協議は、両者の仲の悪さを決定的にあらわにしたのだった。


Notes:

  1. ヒジュロスのこと。ガルシアとアデーレを取り合ったほどで、アデーレに対してはかなり執着していたらしいことが伺える。