第三章 悪魔と魔女の晩餐(2)

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 部屋の掃除が終わり、僕らは叔父さん叔母さんとともに暖炉を囲んでお茶を飲んだ。もちろん、話題はあの男のことで持ち切りだった。

「グレスドールの虐殺は奴の差し金だっていうじゃないか」

「えーっ、やっぱりそうだったの?」

「むろん噂だけどよ」

根も葉もないことを言うのはよくないと言いつつも、叔父さんだってあの男のことはよく思っていないのだ。僕はその言動からグレスドール公に対する恨みとも怒りともとれない何かを感じていた。

「反乱をおこさせて、それに乗じて国土を奪還しようとした。でも結局失敗に終っちまって自分は何食わぬ顔をして黙っている。当時そういう噂が蔓延していた」

「ねえ、あんたたち、あくまで噂なんだよ、噂。はっきりそうとわかっていることでないのに大公についてどうこう言うのは…」

「火のないところに煙は立つめえ」

叔父さんは不機嫌そうにそう言うとお茶を飲み干した。

「確かにそれば否定できないけれど…」

「とにかく、あんな奴はとっとと追い出すに限る」叔母さんの話を遮り、叔父さんは席をたった「俺は畑に行ってくる」

叔父さんが出ていってしまうと、叔母さんは大きなため息をついた。僕は叔父さんがグレスドール公について今言った以上に何かを知っているのではないかと思った。きっとその何かを叔母さんは知らないのだ。

「マーサ叔母さんはなんで大公の肩を持つの? きっと叔父さんは、今話した以外にも何か知っているんじゃないのかな。僕らに言えないようなことを。だから不機嫌なんだよ」

「別に肩を持っているわけじゃないんだよ。ただね」

叔母さんは何かを迷うように言葉を切った。

「ただ?」

マリーシャが身を乗り出すようにして尋ねる。

「実際以上に悪く言われているだけということもあると思うんだよ。アデーレみたいにね」

確かに、噂で耳にするアデーレは実物以上に極悪で化け物じみていた。実際彼女を化物のように思っている輩も少なくはなかったし、実は北の回し者という今から考えるととんでもない噂も一部で信じられていた。

でも、それは本人にも十分責任があるように思われる。ぶっきらぼうだし、第一やることがかなり人間離れしている。僕が初めてこの谷に来た時、馬一頭がギリギリ通れるような細い崖際の道を、騎乗のまま通過したのだ(アデーレだけが使う「近道」で他に使っている人間はいない)。とにかく、百歩譲っても女のやることではない。それにあの「特異体質」のことだっていろいろな人間に触れ回っていたに違いない。

今にして思えば、ある意味で割れ鍋に閉じ蓋の二人だったのかもしれない。とにかく二人とも誤解されやすい体質なのだ。大公は常に不機嫌そうで、尊大な態度をとっていたけれど、そこにさえ目をつぶれば話の通じる人間だった。おそらく不機嫌なわけでも、尊大なつもりもなかったのだ。自分の表情や態度が周りにどう思われているかという自覚に欠けていただけで。そのことをアデーレは理解していたのだ。そうでなければあんな男に仕えようとは思わないはずだ。

一方のアデーレもそういう点では似たりよったりだった。正鵠ぬきというあざなを持つがゆえに、人々は彼女を人間離れした存在と見なしている。また、ガルシアの養女にして女であるという認識も(おそらく事実と裏腹に)一般化していた。

ガルシアは多くの浮き名を流したが、死の直前までアデーレを離さなかったことは事実で、人々は彼女が男を懐柔する油断ならない女だと考えていたようだった。だからこそ、アデーレとグレスドール公という組み合わせは周囲には非常に危険なものと映ったのだ。

「よくわからないけれど、アデーレに関してはそのとおりだと思うわ」

マリーシャは笑い出した。

「まあね」

僕も笑った。アデーレ自身、自分がどう思われていようが気にしない性格をしていたし、むしろ悪名高いことを誇りに思うような天の邪鬼なところがあった。

「見かけ以上にね、お人好しなのよ、たぶん。だってそうでないならなんで私までここに連れてきたの? リェイジュンの場合、お父さんと知り合いなんでしょ。私は何の緑もゆかりもないはずだわ」

「そうだよ。だからね、あまりよく知らない人のことをそう悪く言うもんじゃないよ。もしかしたら、ああ見えて良い人かもしれないんだから」

マーサ叔母さんのこの言葉で、ひとまずこの話は打ち切りになった。でも結論をいってしまえば、大公が「良い人」である証拠は得られぬまま、「悪い人」らしい傍証が残された。でも、これは本人が悪いんだ。アデーレを敵に売り渡して、厄介払いしたと自ら公言しているのだから。

僕らはバジルダットの家からマーサ叔母さんの家に「避難」してきたわけだけど、そんな意味は全くなくなってしまった。なぜなら、その日の夕食にアデーレが僕ら二人を呼びつけたからだ。そのことを伝えに来たバジルダットは自分の気遣いがふいになることに怒り心頭だった。でもそれ以上にアデーレとグレスドール公に付き合うことにほとほと疲れ果てているようでもあった。

僕は二つ返事で同席を承諾したけれど、マリーシャはなかなか首を縦には振らなかった。

「とにかく来るんだ。子どもでもなんでもいい。まともな神経を持った人間がいてくれないと。こっちが参っちまうぜ」

僕はバジルダットに対する同情心もあって、彼のあとについていった。

「二人はうまくやっているの?」

「正確には三人だが。非常に穏やかに平行線な話を繰り返してやがる。付き合っちゃいらんねえよ」

僕らが畑を横断した直後、後ろからマリーシャが走ってきた。

「私も行くわ。連れてって」

「来たくないなら来なくていいんだぞ」

バジルダットの言葉に彼女は強く首を振った。

「どんな人か話してみるわ。そうじゃなきゃ、いい人か悪い人かわからないでしょ」
「大きな声では言えないが、あれは悪い人だ」

バジルダットは断言してしまった。

とにもかくにも、僕ら二人はそろって「悪い人」の前に引き立てられた。

「大公。あなたが追い出した子どもたちが帰ってまいりました」

食堂に入るなりアデーレは僕らをそう紹介した。大公と呼ばれた男はちらりと(さも鬱陶しそうに)僕らの方へ視線を走らせた。

「帰ってきたと言うより無理矢理引き立てられたという方が正しいと思うが」

「それはそうでしょう。自分たちが夕食の皿に乗ることぐらい覚悟の上で参ってますとも。草原の民はあなたが思っているほどには臆病ではありませぬ」

それで、どうやら僕らのことが話題に上っていたらしいことがわかった。そして、二人の客が僕らを嫌っていることも。

「確かにおっしゃるとおり臆病ではないかもしれませぬ」大公の脇にいた若い男が口を挟んだ。「だが、彼らは口がきけないようです。あるいは礼儀を知らぬだけでしょうか」

アデーレは肩を揺すって笑い出した。

「あなたはご存じないかもしれませぬが、彼らは食事の際に口をきくことを礼儀に適わぬことと見なしております。あなたのはうがよっぽどお行儀が悪いのであきれかえっているのでございましょう」

男は真っ赤になって口を閉じた。確かに、アデーレやグレスドール公に比べ彼は実によく食べているようだった。

「こちらが、キタイ族のジョルディオン、かつて逆立ちのジョルディといわれた名騎手の息子で、リェイジュンと申す者です」

「お初にお目にかかります」

紹介を受けて僕は頭を下げた。

「なあに、逆立ちって?」

隣でマリーシャが耳打ちをしたが、僕も父にそんなあざながあったことなど知らない。

「逆立ちだと?」

グレスドール公が奇妙なものを見るように僕を見た。ただでさえ鋭く、冷たい視線がさらに厳しさを増す。

「このように紹介を受けましたが、私も父にそのようなあざながあったことを、今初めて耳にしました」

「リェイジュン殿はご存じなかったのか。お父上はよく鞍の上で逆立ちをしながら馬を走らせていたものだが」

僕は目を見張った。

「はっはっはっは、よいご冗談だ。そんなことができるわけないでしょう」

例の若い男が大公の隣で大笑いを始めた。

「できますとも。わたくしはかつてジョルディ殿より馬術を直々に伝授されております。いずれお目にかける機会もございましょう」

嘘だ。確かにアデーレならできるかもしれない。でも、あの親父にそんなことができたとは思えない。

「続いてこちらが、チェール族の長グルガンの娘でマリーシャと申す者です」

マリーシャは黙って頭を下げた。

「なるほど。あの豪胆な男の娘か」

グレスドール公は彼女の父を知っているらしかった。

「そうでなければ悪魔と魔女の前に姿を現しますまい。さあ。二人とも冷めないうちに早く夕食を平らげた方がいい」

僕らはアデーレに促されてテーブルにつき、食事を始めた。いつになく豪勢なメニューだったが、味なんて感じられない。部屋全体がなんともいえぬ嫌な雰囲気に包まれている。まさに悪魔と魔女の晩餐という感じだ。

「これでおわかりでしょう。毒など一滴たりとも入っておりませぬ。まあ、魔女の作ったものなど食べられぬとおっしゃるなら、致し方ありませぬが」

僕とマリーシャは顔を見合わせた。どういういきさつかは知らないが、招待を受けておいて料理に毒が入っているか疑っているなんて。

「別に疑っていたわけではない。魔女は言葉に毒を盛ることはあっても料理に毒を盛ることはない。そうであろう?」

「ははははは。よくご存じでいらっしゃる。こちらのやり方にご理解をいただけるとは。非常に光栄でございます」

こんなやりとりを食事の間中聞かされているんじゃ、誰でも滅入ってくる。僕はアデーレの右隣にいるバジルダットを横目で盗み見た。彼は完全に聞こえない振りをしている。

「そうだ。あなたたちにも紹介をしなくてはいけないな。こちらにおわすお方がいわずと知れたグレスドール大公イグナシオ様。そしてお隣にいらっしゃる方がフリオ様。フリオ様は、大公のケディア出兵以来の長旅を常にともにされている忠実なお方だ」

フリオと呼ばれた男が黙って頭を下げたので、僕らもお辞儀をした。

男は年の頃二〇歳前後と思われた。大公ほどではないがそこそこの高身長で、やせ形ではあるけれど締まった体をしている。赤茶けたような栗色の髪に茶色の瞳。大公のようにいかにも武人という雰囲気は感じられない。たぶんだけど、軍人ではない。ただ単に何かの成り行きで大公のお供をしているだけなんだろう。

当時は考えてもみなかったけれど、大公はかなりの苦労人なのだ。支配していた国を失った王位継承予定者、つまり亡国の王子という立場だった。そういう立場の人間に仕え、行動をともにしていたということは、フリオは腹心の部下の一人といっていい存在だったはずだ。

でも、同行させる腹心の部下に武術の心得があまりないとなると、けっこう危険が大きかったのではないか。別に平時にただ放浪しているのならいいけれど、これから一戦始まるという状況ではいつ命を狙われるか分かったものではない。

だから大公は、アデーレを同行したかったのではないか。あるいはアデーレを同行してユリーツィアに行くことで、アデーレが自分側についているのだということを示したかったのではないか。

当時も今も、この問題に関してはよく分からない。少なくとも大公はアデーレに命を狙われるかもしれないとは考えていなかったのだろう。何か共通の目的があったのか、アデーレの弱みを握っていたのか、とにかく大公はアデーレに一定の信頼を寄せていたことは間違いない。