第三章 悪魔と魔女の晩餐(1)

第二章 水沸谷(3)

(2)

 アデーレとイグナシオの関係がどのようなものであったのか、僕には今もってわからない。ただ世間一般の見方では、イグナシオはアデーレを裏切ったのであり、彼女は利用されて用済みになった段階でお払い箱にされたということになっている。

 むろん本当のところは、イグナシオを裏切り者に仕立て上げたのは彼女であり、最終的に割りをくったのはイグナシオだということになるのかもしれない。明らかに評判を落とし、汚名を着せられたといっても過言ではない結果となったのだから。まあ、いずれの立場をとるにせよ、二人の仲が決して良好ではなかったことを前提としているのは確かだ。

 僕が知る限り、二人はあからさまに対立していたわけではなかった。むしろ良好な関係にあったというべきである。イグナシオは彼女を統一戦線副将ガルシアの後継者として遇していた。一方彼女は、(国は消滅していたが)グレスドール公国の正当な大公位継承者であるイグナシオに対し忠実に仕えていた。イグナシオがアデーレを気に入っていたことは端で見ていても感じられたし、無愛想で常に不機嫌そうなイグナシオの態度をアデーレは全く気にしていなかった。

 それでも、二人のあいだには奇妙な距離があったのは確かだ。それが何に起因していたのか僕にはわからない。単にかつて二人が敵同士だったということだけではないように思われる。おそらくは僕が知らない過去の事件に何か関わりがあるのだろう。

 あるいは世にいう「グレスドールの虐殺」に関することかもしれない。あのグレスドールのあたりには大昔から暗い影がまとわりついている。あそこには決して関わるべきではない。とりわけ、あそこの人間に関わりあいを持ってはいけない。それは決してろくな結果を生みはしないのだ。アデーレがそうだったように。

 つい余計なことを言いすぎてしまった。順を追って話そう。まず、グレスドール公国とイグナシオについて。

 グレスドールはアシュレ川の北に位置する小国で、アデーレがファシュルに来た翌年、つまり二〇年ほど前に帝国に併合された。イグナシオは、劣り腹の子とはいえ唯一の王子であり、帝国の介入さえなければ間違いなくグレスドール大公になっていた人物である。領地を取り上げられはしたものの、彼は(被併合国君主の例に漏れず)元服後に帝国軍に籍をおいた。しかし一〇年ほど前、ケディア出兵の折に軍を脱走。事実上の人質となっている異母妹(婚約者でもあった)を取り戻すべく機会を伺っていた。

 イグナシオがどこでどのようにアデーレと出会ったのか僕は知らない。帝国から異母妹を取り戻そうとしていたイグナシオにとって、アデーレの存在は非常に魅力的なものであっただろう。アデーレにとっても帝国内部の事情に詳しく、一部の人間とは連絡さえ取り合っているイグナシオの存在は利用価値のあるものだったはずだ。二人はそうした共通の利益のもとに手を組んだに違いない。そう考えてみると、二人のあいだに漂った親密かつよそよそしい雰囲気は当然のことのようにも思える。

 とにかく、彼とアデーレの関わりを、僕が知る限り初めから話してみよう。僕が彼を初めて見たのは、集落の裏手にあるなだらかな牧草地だった。

 その日は冬の半ばには珍しい、よく晴れた日で、彼女と二名の同乗者を乗せた飛龍がこちらにやってくるのがはっきりとわかった。(彼女の飛龍は純白 1で、僕はあとにも先にもあんな色をした龍を見たことがない)僕がそこにつくと、既に多くの人が先回りしており、同乗者をめぐり大騒ぎになっている。

 大きな羽音をたてて飛龍が着陸すると、まず彼女と若い男が一人、龍の背から飛び降りた。そして二人とも一様に、いまだ龍の背に残っている男に手をさしのべる。だが男は、二人の手を振り払うようにして龍の背から下りた。次の瞬間にはもう、アデーレと話をしたくて集まった面々が彼女を取り囲んでいる。僕は少し気後れして取り巻きから離れた場所にいた。

「お帰りなさい」
「向こうは雪が降っていたかい?」
「同乗の方はどなた?」
「おみやげはないの? おみやげ」

 一斉に抱きついてくる子どもや、話しかけてくる女たちに彼女は苦笑を浮かべつつ応対している。その様子を背後に控えている二人の男は不機嫌な面持ちで眺めていたが、業を煮やした若い方の男が軽く咳払いをした。

「皆静かにして道をあけるんだ」彼女は一群のざわめきに負けぬよう声を張り上けた。「グレスドール大公イグナシオ様がいらせられたのだから」

 しかし、それは逆効果になってしまった。取り巻きたちは驚きと物珍しさから二人の男を見つめ、めいめい勝手に話を始めた。飛龍に興味を移した子どもたちは、龍を取り囲んでつついたり叩いたりしながら大騒ぎしている。

 僕は、グレスドール大公と呼ばれた男の様子を遠くから観察していた。年の頃は三〇前後。背が高く、かなりがっしりとした体躯をしていることがマントの外からもわかる。鋭く釣り上がった目は不機嫌そうな色をたたえ、周囲を取り巻く者たちを見下している。固そうな銀髪は肩の上で切りそろえられ、谷から吹き上げてくる風に乱されていた(あとになってわかったことだけれど、この男が不機嫌そうな顔をしているのは生まれつきらしく、しかめっ面も釣り上がった目も終始一貫して変わらなかった。僕は彼の滞在中、彼が笑顔を浮かべたところをついぞ見なかった)。

 断っておくけれど、大公と呼ばれる人物に対して僕が敬語を使えないなどと思わないではしい。僕は彼に対して微塵も敬意を感じていない。だからここであえて敬語を使おうなどとは思わない。それだけのことだ。

 彼はニレド言葉もフィオリア方言も難なく理解する頭の持ち主なので、むろん必要があれば.敬語を使って話はした。でもそれは必要最低限にとどめられた。なぜなら僕は彼を嫌っていたし、彼も僕を嫌っていた。僕に限らず、草原の民一般を彼は嫌っているらしかった。

「リェイジュン!」

 アデーレに見つかり、僕のグレスドール公観察は中断を余儀なくされた。僕が渋々彼女に視線を移すと、彼女は谷の下を指さしている。バジルダットに知らせろという意味だ。僕は無言でうなずき、急いで家に向かった。

「なんだって?」

 僕がグレスドール大公の来訪を伝えると、バジルダットはとたんに不機嫌になった。いや、むしろ怒り始めた。

「よりにもよって、なんであんな奴を連れて来るんだ!」

そのあまりの剣幕を聞きつけたのか、マリーシャが二階から下りてきた。

「なあに? いったい何があったの?」

「アデーレがグレスドール大公を連れて来たんだ」

 マリーシャの顔が強ばったのを僕は他人事のように眺めていた。なんなんだ? そんなに恐ろしい人物なのか?

「おめえらはこの家から避難するんだ。マリーシャ! マーサを捕まえて、これから避難しにいくと伝えてくるんだ。リェイジュンは二人の荷物をまとめてマーサの家へ行け。いいか。奴らが出ていくまでは帰ってくるな。この家で生活していたことも奴らに言うな。絶対だぞ」

彼はそう言い捨てると大急ぎで家を出ていった。

「リェイジュン。私の部屋、入っていいから、私の荷物もまとめておいて。私、マーサ叔母様を見つけてくる」

「待ってよ、マリーシャ」僕は彼女を呼び止めた「なんで皆そんなに慌てているんだ。そんなに恐い人なの?」

彼女は、焦り半分、あきれ半分という表情で僕を振り返った。

「あとで話すわ。とにかく今は急がないと」

彼女は玄関のドアに体当たりするようにして出ていってしまった。

 僕は自分にあてがわれていた部屋を整理し、荷物をひとまとめにした。着の身着のままでここへ来たようなものなので、たいしたものはない。隣のマリーシャの部屋も似たようなものだった。僕は二人分の荷物を抱え、道の向かいにある畑を横切った。畑を越えたところにある細い道を左に進み、坂を上がったところがマーサ叔母さんの家だ。

 バジルダットの従姉妹か何かにあたる人で、旦那さんと二人暮らし。娘さんは東海岸へ嫁に行っていて、息子さんはユリーツィアに傭兵として働きにいっている。なんで僕がこんなことを知っているかというと、この夫婦はしばしばバジルダットの家に夕食を食べに来ているからだ。

 マーサ叔母さんの家の前につくと、家の裏手からマリーシャが姿を現した。無言で僕に近寄ると、僕が今来た方をしきりに指さす。僕が振り返ろうとすると、僕を強引に木の陰へ引っ張り込んだ。

「なにするんだ」

「しーっ!」マリーシャは唇に指を立てて言った「あの人たちの目につかない方が身のためよ。ろくでもない噂ばかりで、いい噂なんて聞いたためしがないんだから」

「ろくでもない噂?」

僕は木陰から畑向こうの道に目をやった。アデーレの案内で、大公とその従者とおぼしき若い男がやって来るのが見える。

「そうよ。あなた知らないの? ガルシアを暗殺した張本人 2って噂まであるんだから。他にも数え上けたらきりがない」

「なんだって?」

僕は思わず大声を上げた。

「二人とも、何を大声で話してるんだい。さっさと家に入るんだよ」

 僕の声に気づき、マーサ叔母さんが二階の窓から顔を出して大きく手招きをしている。僕らは慌てて家の中に入った。

「ねえ、さっきの噂、いったいどこから聞いたんだ?」

僕はドアを閉めると同時にマリーシャに詰め寄った。

「私の伯父さんからよ。伯父さんは五年前まで南にいた人だから。そこで耳にしたらしいわ。もちろんただの噂よ。でも、火のないところに煙がたつとは思えない。そうでしょ?」

「アデーレは知ってるのかな?」

彼女は知っていてあの男を連れてきたのだろうか。だとしたらいったい何のために?

「そりゃ、当然知ってるはずよ。その上でただの噂だと知っているのか、噂ではないと知っているのかはわからないけど…」

「二人とも上へいらっしゃい」マーサ叔母さんが階上から顔を出した「部屋を見せてあげるわ」

「はい!」

僕らは階段を駆け上がった。

「ここが息子の部屋、ここが物置。この二部屋以外は使って構わないんだけど、突然のことで掃除ができていないんだよ」

二階は全部で五部屋あった。

「どの部屋をお借りするか決まったら、各自掃除しますわ。帚とちりとり、バケツと雑巾を貸してください」
「そうね。今とってくるわ」

マーサ叔母さんはゆっくりと階段を下っていった。

「あなたはこの部屋決定よ」

叔母さんが完全に階下へ消えるとマリーシャは北の一角を指さした。

「なんでだよ?」

よりによって一番日当たりの悪い部屋をなんで選ばなくちゃならないんだ。

「いいから」

そう言って彼女はその部屋に僕を連れて入った。

「この部屋からなら、アデーレとグレスドール公の動きが見えるじゃないの」

言うが早いが部屋の突き当たりにある窓に駆け寄り、それを思いっ切り開け放つ。そこは叔母さんが僕らを呼ぶために開けた窓で、確かにバジルダットの家がはっきり見えた。

「なるほど。奴らの動きを監視しようって言うんだな」

「当たり前じゃない。アデーレに何かあったらすぐに駆けつけられるわ」

「何かって?」

アデーレに何かあっても僕らではどうしようもないのではないか。駆けつけたところで何ができる。

「暗殺とか、そういうことよ」

「暗殺っていうのはね、わからないように殺すから暗殺なんだ。ここでアデーレが殺されたとしたら、真っ先に疑いがかかるのはあの男じゃないか」

「馬鹿ね。逆もありうるわよ」

「逆?」

「そう。アデーレがガルシアの仇を打つってこと」

 僕はその可能性について考えてみた。彼女があの男を連れてきたのは、油断させておいて、隙をついて殺そうと考えているからなのか。でも、彼女はそんなことはしないような気がする。仇であると確実な証拠があったとしたら出会い頭に殺しているだろう。暗殺するつもりならわざわざこんなところに連れてくるとは思えない。

「それはないと思うな」

「なんで?」

「仮にここでグレスドール公が急死したとする。毒を盛られるとか、どこからともなく飛んで来た矢にあたるとか。いずれにしたって谷の人間に容疑がかかるじゃないか。アデーレはそんなことしないよ。きっと」

「そうね。確かにそうだわ。でも、それならなんであの男を連れてきたのかしら」

叔母さんが階段を上るってくる足音が部屋の外から聞こえてきた。

「とにかく、僕はこの部屋を借りることにするよ。そして何かあったらマリーシャを呼ぶ。それでいいね?」

「そうこなくっちゃ」

マリーシャは部屋の外へ駆け出していった。


Notes:

  1. 当時はまだ中央大陸北部の山地や東大陸東部の山脈地帯などに知性を有する翼龍たちの棲息地が存在していた。おらく第八章での会話から察するに、この龍も人語を解したと思われるが詳細は不明。通常肌はねずみ色の堅い鱗で覆われているが、まれにアルビノとして純白のものも見られたようだ。
  2. 第九章の末に記録されている情報が真実なら、暗殺の実行犯ではなさそうである。イグナシオはアデーレを焼き討ちした張本人であると自ら公言しているが、ガルシアの暗殺については一言も触れていない。おそらくイグナシオはガルシア暗殺には関わっておらず、アデーレは黒幕が誰であるか知っていたに違いない。