第二章 水沸谷(3)

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第三章 悪魔と魔女の晩餐(1)

 バジルダットが帰ってくるまでのあいだ、僕らはだいたい似たような毎日を送った。夕食時に、谷の人間が加わることはあったが、僕らはたいてい三人で過ごした。ほとんどすべての家事をアデーレがこなし、マリーシャは力量に応じた仕事をあてがわれた。僕は基本的に馬の世話をし、時折水汲みや薪割りなどもした。そしてしばしば温泉につかりにいった。

 その名が示すとおり、水沸谷は少し歩けば温泉にぶつかる土地柄なのだ。至る所に数人が入れる共同浴場がある。そこは谷の中の社交場として機能していたし、今でもきっとそれは変わってないと思う。

 マリーシャはよくアデーレについていき、ほぼその度ごとにくたくたになって帰ってきた。アデーレがいる浴場に誰かがやって乗ると、その人間は十中八九彼女に歌をせがんだのだ。そしてそれを聞いているといつの間にか長風呂になってしまう。

 そんなことを何度か繰り返したあと、マリーシャは感心したように僕に言った。アデーレの口から一度として同じ歌を聞かないと。僕も彼女の歌を聞いてはいた。夕食後寝る前までのあいだに彼女は実に多くの歌を歌い、確かに一度として同じ歌を聞かなかった。でもそれはマリーシャも傍らで聞いている。つまり、マリーシャは僕以上に彼女の歌を聞いていて、なおかつ同じ歌を耳にしないのだ。

 彼女はよく大昔の話はしてくれたのだけれど、昔の話はほとんどしなかった。つまり、第二次統一戦線時代のことは好んで話さず、代わりにフィオリア古伝説だとか北方歌謡、叙事詩のたぐいを歌って聞かせるのだ。どこかで聞いたものも、全く聞いたことがないものも、彼女の口から語られると昨日の出来事のようにその光景が目に浮かんでくる。

 でも残念ながらほとんどの歌を正確には思い出せない。その時は全く覚えようなんて思わずに聞いていたのだ。僕は子ども特有ののんきな考えをしていて、こんな夜がこの先何年もあると思い込んでいた。たとえ僕が草原に帰り、家族みんなで草原に暮らすようになっても、アデーレが訪ねてきて、こうして歌を歌ってくれるだろうと。そんなことは決して叶わない夢物語だったのだと気づいたのは、彼女が姿を消してしばらくたってからのことだった。もしかしたら、彼女は初めから消えるつもりでいたのかもしれない。なぜなら、それがファシュルにとって最善のことだから。

 僕らは、特にマリーシャはガルシア健在の頃の話を聞きたがった。一級の語部であるアデーレも、このことに関してだけはなぜかうまく語れないようだった。僕はガルシアに教わったこととか、弓の腕を上げる方法とか、龍の手懐け方とか、実戦で役立ちそうなことを執拗に聞いていた。

 でも僕が得た情報は、彼女の語る一連の歌や叙事詩がすべてガルシアの口伝 1によるものだということぐらいで、戦に関することは一切聞き出せなかった。対してマリーシャはガルシアとの関係を聞き出そうとしていた。こちらはいくぶん彼女の固い口を割ることができたようだ。期待外れの回答ではあったけれど。

「もちろん、私たちの関係は特別で、特殊なものだった。父と娘でも、男と女でもない不思議な関係だった」

そういったアデーレの表情は優しく、口調はいつになく静かだった。やっぱり、二人はそういう関係だったんだ。僕はその時、彼女の表情を見た時、何の疑問も無くそう思った。

「寝る前に、あの人は必ず歌を歌い、私に同じように歌わせた。もちろん一緒に寝ていた。いつもというわけではないけれど」

「ねえ、大きくなったら結婚しようとか、言われてなかったの?」

でも、マリーシャの質問にアデーレは腹を抱えて笑い出した。

「まさか。あの人が関係を持った女を私はある程度知っている。どういうわけだか、何人もの女が引っかかっていてね。あの人はその一人一人について、逐一私に話したんだ。そして最後に必ず言った。俺みたいな男に引っかかるなと」

 僕らの中にあるガルシア像が音をたてて崩れ去った瞬間だった。英雄色を好む。とはいえ、この話は僕にとって少なくないショックを与えた。おそらくアデーレが、最もガルシアに近い女がそれを口にしたからだろう。

「で、アデーレはガルシアみたいな人に引っかからずに済んだわけ?」

一瞬「ぴきん」という音が確かに聞こえた。それでも、その時僕は禁忌に触れたことに気づかなかった。

「けっっ、悪かったなあ。箸にも棒にも引っかからない女で」

 その日一日、アデーレの機嫌が悪かったことは今でもよく覚えている。

 この期間に僕らが知ったことで、一番大きなものがまだ残されている。先伸ばしにしていた、彼女の出自についてだ。いったい、どこからそういう話になったのか、僕には思い出せない。その話自体があまりにも突飛で、衝撃的なものだったからだ。今にして思えば、それは彼女が抱える闇の一番大きく根深い部分だったに違いない。そして僕の推測が正しければ、これこそが、あの彼女をして昔日の出来事を語らしめぬ最大の理由であったはずだ。

 それは、雪が降る寒い日だったと記憶している。暖炉脇のテーブルで、ミルク入りの熱いお茶を飲んでいた。確かアデーレは膝の上に縫いかけの服を乗せていたと思う。とにかく、彼女の手中に針があったことだけは間違いないのだ。僕だったか、マリーシャだったかが何かを聞いた。些細な質問だったと思う。その質問から、まさかそんな答えが出てくるとは思いもしなかった。そういう内容の質問だ。

 アデーレはお茶をテーブルに戻すと、何かを考えるように僕の後ろにある壁を見つめた。何かを決めかねているような、そんな気配が感じられた。

「ケディア族、いや、西方三異種族について知っているか?」

僕はマリーシャを見た。彼女も僕を見ていた。いったいなんでそんなことを聞いてくるのだろうと、彼女の目は語っていた。僕たちは二人とも首を縦に振った。

「中央大陸に住んでいる世界で一番古い種族。伝説では、大昔にあった世界の中心にある柱を守ることを仕事としていた。偉い王様がいて初めの魔女を退治した。それぐらいかな。私が知っているのは」

マリーシャは僕の方を見た。僕の知識も似たりよったりだ。付け加えることなんてない。でも、それがどうしたというんだろう?

「西方三異種族。ここでは確かにそう呼ばれているけれど、三つの全く違った種族というわけではない。王族の系統が三つだからそう呼ばれる。その筆頭の名をとってケディア。我々は自らをそう呼んでいる」

僕らはうなずき、黙って続きを待った。

「我々のごく一部には、とても奇妙な体質 2を持つものたちがいる」

彼女はそう言って針から糸を引き抜いた。そしてしばらくそれを眺め、何を考えたのか針を布に戻し、懐からナイフを取り出した。そして左の袖をまくると、抜き身のナイフを腕に当てた。

「何をするんだ」

僕たちは思わず立ち上がった。

「大丈夫、座って。私もその奇妙な体質の持ち主だ」

ナイフの切っ先が、彼女の腕にめりこんだ。刃を血がつたう。

 マリーシャが息を飲んだ。僕は我が目を疑った。血が、異様に黒ずんで見える。刃をつたい、鍔に到達した血液が、雫となってテーブル上に落ちる。普通の血の色ではない。相当黒みがかった深紅だ。

「これ、本当に、血なの?」

マリーシャはその奇妙な色をした血液を食い入るように見つめている。アデーレはナイフを腕から離した。

「私以外にも、こういう体質のケディア族はいる。問題は、ここからなんだ。見ていて」

彼女はナイフでできた傷を僕らに見えるようにした。既に出血は止まっていて、血が固まっている。傷の表面についている血の塊を、彼女はゆっくりとこすり落とした。どんなに目を凝らしても、傷の痕跡は見いだせなかった。

「触ってみていい?」

マリーシャの言葉にアデーレは無言でうなずいた。おそるおそる、傷のあった場所に指を当て、皮膚をなでる。

「ない。本当に傷跡がない」

 僕もおそるおそるアデーレの腕に触れた。指に引っかかるような感触はまるで感じられなかった。僕が見上げるとアデーレはゆっくりと、非常にゆっくりと笑顔を作った。

「これが正鵠ぬき第三の由来。普通の人間と比べて、怪我の回復力が異様に強い」

 僕はただ呆然と彼女を見つめていた。魔女だ。彼女は本当の魔女だ。腕っ節と悪運の強さが彼女を魔女たらしめているのではない。彼女の存在自体が魔女なんだ。僕は傍らにいるマリーシャの顔を見ることができなかった。マリーシャがどんな表情を浮かべているか、それを知るのが恐かったのだ。

「だから、『人に急所を射貫かれるともその身死ぬることなし』というわけなんだ」

僕は、今や定型句と化したあの言葉を言った。強がりからそうは言ったものの、ひどく乾いた、ひきつった声だったと思う。そして、テーブル上で既に固まった血痕を恐ろしいものでも見るように見つめた。(そうだ、思い出した。確か僕がアデーレに、北に捕らわれていたあいだ何をしていたのかと尋ねたのだ。)

「でも、これとアデーレのしてたことにどんな」

「関係があるの?」僕はそう続けようとして言葉を失った。何となく答えが読めてしまったのだ。

「死んだことになっていた。そうなの?」

先ほどから血痕を見つめ続けていたマリーシャは、とっくに気づいていたらしかった。

「そう。なぜかわからないが、私は普通の人間であれば致命傷と考えられる傷を受けても死なずに済んでしまう特異な体質なんだ」

僕は改めてその奇妙な色の血痕を凝視した。黒い。明らかに人間の血液とは違う色をしている。そして光があたると赤く光って見える。僕はアデーレの黒い髪に目をやった。同じ色をしている。

 初めて彼女に会った時の違和感が鮮明に蘇ってきた。確かに僕は思ったのだ。このあたりでは見かけない毛色をしていると。道理で見たことがないわけだ。僕の直感は決してはずれてはいなかった。あれは、動物が他の種族の匂いをかぎ、それに対して警戒する本能のようなものだったのだ。

「知ってのとおり、死んだことになっているのはその時ばかりじゃない。私は一〇年前、確かに死んでいるはずなんだ」

アデーレはそう話を続けると、帯の中にしまっていた小袋から白い小石のようなものを取り出した。

「これ、もしかして骨?」

マリーシャはその小さな石のようなものをつまみ上げて言った。

「間違いなく私の骨のはずなんだ。トリエラが完全に陥落した直後に、ある人が私たちの屋敷跡を調べた。そこには、ほとんど焼けて骨ばかりになった死体があったらしい。女、しかも年若い女と思われる焼死体が」

アデーレはこともなげにそう言った。

「嘘だろ。現にアデーレは今生きているじゃないか」

僕は信じられなかった。焼け死んだはずの人間が今こうして生きているなんて。

「私だってそりゃないよと思ったさ。それが私でないなら、いったい誰があの人のそばで殉死したのか。そんな人間が私以外にいたのか知りたいもんだね。しかも、その死体捜索の際にあの人のものと思われる死体は見つからなかった」

アデーレは肩をすくめると、骨を大事そうに小袋に入れた。

「つまり、アデーレ自身は燃やされても死なないって信じているってこと?」

マリーシャは驚いたようにアデーレを見上げた。

「その時以外に試してみたことはないからわからないが、たぶんそういうことだろうと思っている」

 僕は、燃やされても死なないということについては信じられなかった。でも、尋常ではない傷の回復の早さは信じざるを得なかった。ガルシアは知っていたのだろうか。当然知っていたに違いない。カーディスは、ラゴレスは。親父、親父は知ってたのだろうか。もし、多くの人間がこのことを知っていたとしたら…。彼女のここでの生活は、戦いは、どのようなものだったのだろうか。

「今まで一番の重症は?」

他に聞きたいことがあるのに、聞くべきこともあるのに、僕はなぜか咄嗟にそう質問していた。アデーレの顔が不意に笑顔に変わった。

「ははははは。自分は意識がないからわからないが。端で見ていた人間の話では、頚動脈切断。らしい」

 僕はめまいがした。彼女は正真正銘の正鵠ぬきなのだ。そして、だからこそ帝国は彼女を恐れているのだ。

「ねえ、もしかしたら、ガルシアは今も生きてるかもしれないって思ってる?」

あまりに直截すぎる質問をマリーシャがするので、僕は背筋が冷たくなるような心地がした。

 実はガルシア生存説は、トリエラ陥落直後から噂になっていたらしい。どんな噂もそうではあるんだけど、発生源は不明で、人によって北の情報とも南の情報ともいわれていたみたいだ。北にとっては宿敵であり、南の中でも微妙な立場だったガルシアが、あのタイミングで不審死を遂げたことは、当然ながら噂の的になった。実は北の間者で用済みになったから殺されたんじゃないかとか、そんな心ない噂をいくつか耳にした。

「いくらなんでも、それはないはずだ。皆で息絶えていたことを確認した。採寸して棺桶を用意していたんだから」

アデーレは淡々と、いや、あっけらかんといってもいいぐらいの口調でそう答えた。

 今にして思えば、彼女が南にいること自体が、帝国南進の大義名分となっていた可能性は否めない。どうして彼女が再びここに戻り、帝国と戦うことにしたのかはわからないけれど。でも、彼女が真性の魔女であるなら、ファシュルが、あるいはファシュル=フィオリア(ファシュル南部)が安全な地域とはなりえない。たとえ帝国に勝利を納めても、いや帝国に勝利したからこそ、この場所は全世界から最も危険な魔女の国と見なされるのだ。果たして、あの時彼女はそこまで見越していたのだろうか。

 そのやりとりがあった日から二日とたたず、バジルダットが水沸谷に帰ってきた。彼から交渉は難航しているが、なんとか決裂はしていない。とりあえず、一時休会なのだ。と聞き、皆一様に安堵した。そして、彼と入れ代わるように、アデーレが再び出かけようとしていた。もしかしたら、彼女はもうここには来ないのではないか。そんな予感が僕にはつきまとっていた。

「くれぐれも、今は南に顔を出さないでくれ」

飛龍で飛び立とうとするアデーレに、バジルダットは何度もそう念を押した。

「心配いらないよ。今回は呼ばれるまでは行かないさ。ちょっと西へ行ってくる。一〇日ほどで戻る」

僕とマリーシャは、二人を遠巻きに眺めている谷の人間に紛れていた。初めて間近で見る龍に気後れがしたのだ。一陣の風が起こり、龍が翼を広げた。出発だ。僕の脇にいたマリーシャが、龍の下に駆け寄っていった。

「あの約束、忘れてないでしょうね。東海岸。東海岸に連れていってくれるって。早く戻ってこないと承知しないからっ!」

マリーシャの怒鳴り声に、彼女はにやりと笑って答えた。そして、僕の方を見て片目をつぶった。待っていろ。そういう意味なのだろう。

 彼女が手綱を引くと、龍は胸を反らすようにして谷の風を受け、空中へ舞い上がった。冬の弱い光を受けて、彼女の白龍は宙を舞う巨大な雪のように見える。僕らは、龍が尾根をつたうように北東方向へ飛んでいくのをいつまでも見つめていた。

 この山脈の東には、東の中の東、すなわち東海岸地方があり、海を越えた先には西方大陸群がある。中央大陸からの難民が大量に流人した地域だ。帝国に対抗すべく難民たちが王のもとに結集しているという噂は当時広く知れ渡っていた。彼女がその勢力と接触したのかはわからない。でも、最終的に彼女を追いつめたのは、帝国でもなく、ファシュルの人間でもなく、この中央大陸人、彼女の同胞ケディア族にほかならない。結局、魔女を最も恐れていたのは、魔女を生み出した者たちだった。

 あの時、ケディアの魔女討伐軍がファシュルへ上陸を開始した時、アデーレは何を思ったのだろう。裏切られたと思ったのだろうか。とうとう来たかと思ったのだろうか。帝国解体後、全ファシュル連合国家を結成し、対ケディア交渉をほとんど一手に引き受けた彼女は、なぜあのような幕引きを行ったのだろうか。あれはすべてグレスドール大公を陥れるための計略だったのだろうか。当の本人は姿を消し、陥れられたはずの大公は自らが魔女を陥れたと公言して、多くを語ろうとはしない。

 忘れもしない。あの日、約束の一〇日という期限から四日を超過して、アデーレは戻ってきた。そいつは、ぬけぬけと僕らの前に姿を現したのだ。ずうずうしくも、アデーレの飛龍に同乗して。第一印象も最悪だったが、何度か接触を重ねるうちに印象はさらに悪化した。無口で、高慢で、鼻持ちならない奴だと。グレスドール公イグナシオ。僕はいまだに奴を完全に許すことができない。


Notes:

  1. 九章でも触れられているが、ガルシアの母はイルファレンの歌姫であり、彼が母から「王の歌」を受け継いでいた可能性は高い。
  2. 今なお中央大陸北部では通常より黒みを帯びた血液を有する人間は存在しているらしい。しかし怪我の回復が早いという話は管見の限り見当たらない。