第二章 水沸谷(2)

(1)

(3)

 正午前に「交渉名人バジット」は谷をあとにした。あまり期待しないで待っていろと言い残して。残った僕らは、彼の弁当と共に作った昼食を平らげ、それぞれの仕事にかかった。僕は籠を編み、アデーレとマリーシャは針仕事を始めた。どこで手に入れたのか、厚手の毛織物を裁断している。僕が籠を編み始めたのはこの谷に来てからで、あまりうまくはない。

 それに対して二人の手際は明らかによかった。どこにどのようにしるしをつけ、どこを切るかということをアデーレは頭に入れているのか、マリーシャに何かをいいながら、彼女が裁断した布を組み合わせている。でも、どうなることやら。何だか二人とも細かい作業は向いていなさそうに見える。

 しばらくするとマリーシャがお茶にしようと呼びにやってきた。意外にも出来立てのコートを着て。

「ねえねえ。あの人が縫ったのよ。意外だと思わない? こんなに針仕事がうまいなんて」

そう言うと彼女は弾みをつけて一回転した。確かになかなかのできだった。素人が作ったものには見えない。

「ガルシアの針仕事はすべて引き受けていたらしいわよ。ねえ二人で協力してさ、いろいろ聞きだしましょうよ」

マリーシャは僕の腕をつかんだ。

「何を聞くんだ?」

「北の様子よ。あの人、北銀山にいたって言ってたじゃない。私たちの家族、きっとそこにいるんだわ」
「そんなこと聞いてどうするんだ」

「こっそり助け出しにいくの。もちろんあの人を説き伏せて。そうじゃないとみんな殺されてしまうかもしれないじゃない」

「まさか」僕は考えもしなかった可能性にぎょっとした。「銀山で働かせることが目的なら、すぐに殺したりするもんか」

「あなた、グレスドールの虐殺 1を知らないの?」

マリーシャがあきれとも驚きともつかぬ表情をした。聞いてはいる。きつい鉱山労働に耐えかね、反乱をおこした奴隷を一人残らず処刑したという話だ。でも、どこまで本当かなんてわからない。そんな噂なんていくらでも尾ひれがつくものだ。

「二人とも何してるんだ?」

アデーレの声が奥の部屋から飛んできた。

「なんでもないわ」
マリーシャが答え、僕らは慌てて部屋に入った。

「早く脱ぎなさい。まだ仮縫いの段階なんだ」

言うが早いがアデーレはマリーシャから出来かけのコートを取り上げた。僕は椅子に座って用意されていた干し杏を口に入れ、彼女の手元を見つめた。確かに、かなり手慣れた手つきだ。

「ねえ、北銀山にいたんでしょ。どんなところだったの?」

アデーレは少しだけ目を上げた。

「聞いてどうする?」

「お父さんやお母さんがいるかもしれないところでしょ。どんな場所か聞きたくて」

アデーレは針を止めた。

「冬はここより寒い。今頃向こうは冬真っ盛りで雪に埋まっているだろう」

彼女は玉留めをして糸を切り、コートを裏返した。

「グレスドールの虐殺って知ってる?」

一瞬アデーレの動きが止まったのを僕は確かに見た。けれど、彼女はすぐに何事もなかったように首を振った。

「私はその時、グレスドールの近くにはいなかった。だから、詳しいことはよくわからない。噂としては聞くが、実際にその場に居合わせたという人間に会ったことがない」

「ねえ、銀山での仕事って大変なの?」

「ああ」アデーレはためらうことなくうなずいた。「とても力がいるし、肉体を酷使する仕事だ。早いこと連れ戻すに越したことはない」

 彼女は袖を裏返し、肩の部分を縫いにかかった。かなり仕事が早い。僕は口の中の杏をお茶で流し込み、もう一つの杏に手を伸ばした。何かすねにあたるものがある。テーブルの下を見ようとして、マリーシャと目があった。彼女は無言でうなずいている。

「私たちだけで、こっそり助けにいけないの? 南の人たちの協力なしで」

「無理だな。銀山なんだ。警備が厳しい。百人以上の人間をこっそり移動させるなんて不可能だ。それにあの近くには船を泊められるようなところはない」

 マリーシャが僕のすねを強く蹴った。何か言えということなんだろう。

「帝国はアデーレが正鵠ぬきだってことに気づいていた?」

僕はさっきから不思議に思っていたのだ。帝国は『魔女』を恐れている。そうバジルダットは言っていた。彼女が彼女であることを知っていて、なぜ彼女を殺さなかったのか。

「気づいていなかった。気づかれていたら、私は今ここにいない。向こうが気づいたのは、私が逃げ出したあとだ」

「間一髪って感じだね」

 彼女は笑いながら最後の玉留めをし、糸を切るとぬるくなったお茶を手にとった。

「アデーレは、北の地理については詳しいの?」
僕は聞いてからしまったと思った。これではあまりにもあからさまだ。

「二人とも北のことばかり知りたがってるな。乗り込みたいのか」

「もちろん。私たち、アシュレ川より北に行ったことないんだもん。私いっつも思ってたの。草原って広いだけでなんにもない。海も見られないし雪も降らない。他のところに行ってみたいって。もっと北に行くと、夜の虹 2が見える。世界の桂の一つがある 3。そうお祖母様が話してくれていた。そんなところに行けるのなら、無理矢理連れていかれたっていい。なんで私だけ取り残されちゃったんだろう」

「馬鹿言うなよ」

思っていた以上にきつい口調になり、口にした僕も驚いた。でも、そんなことお構い無しにマリーシャがこちらを睨んでくる。

「私は馬鹿なんかじゃない。だって一人だけ残されたって何もできない。そうでしょ。 弓も剣も使えない。馬も羊もお金もない」

 突然マリーシャの双眼から涙が溢れ出し、言葉はかき消されてしまった。僕は慌てた。そんなつもりで言ったわけではないんだ。僕だって、ここに来た当初は同じことを考えた。なんでよりによってこの僕が一人だけ帝国の手から逃れたのかと。いっそのこと捕まってしまえばよかったのではないかと。そして、今でも思う。僕がもっと大人であれば、あるいは、僕ではなく父か兄貴だったらと。

「心配するんじゃない」

アデーレがマリーシャを抱き寄せた。それで、彼女の心にかかっていた歯止めは完全に機能しなくなったらしい。アデーレに抱きついて派手に号泣し始めてしまった。

「そんなの、子どもが心配することじゃない。武器を使って戦うことも、生計をたてることも私に任せておけ。あんたは雪を見ただろう。そのうち東の海を見せてやる。北の柱のことも、南の巫女のことも私は話すことができる。初めの魔女の最期だって」

「巫女の大樹?」

僕は思わず、大叔父が話してくれた昔話の題を口走った。アデーレも知ってるんだ。

「なんだ。リェイジュンは知っているのか? 『風立つ 青森 火をつけよ 火をつけよ』子どもに聞かせるお話にしてはずいぶんと物騒な話だ」

アデーレは肩を揺すって笑っている。腕の中のマリーシャの嗚咽もだいぶ治まってきた。

 あれ? でも、あの森焼きの歌は 「火を放て」じゃなかったっけ?

「風立つ 青き森 火を放て 火を放て 橿の巫女は 大橿の 木の本 落ち葉が上に 立ちて火を待つ」

僕は記憶を頼りに森焼きの歌を歌った。森を切り開こうとする男たちに逆らって、巫女は最後の最後まで抵抗した。森を焼くという脅しに屈せず、森の主である大橿のそばを離れなかった。

 そして業を煮やした男たちは、森の中に巫女を残したまま森焼きを始めてしまう。その緊迫した場面で本当にこんな歌が歌われたのだろうか。

  風渡る ファシュル=フィオリア
  神の峰 高尾根が原
  山裾に めぐる青垣
  中つ森 立ちませる橿
  上つ枝は 雲を凌ぎ
  下つ枝は 我が帯を懸く
  ひさかたの 天の御柱
  切り焼かば 灰吹きすさび
  木は生ひず 水は濁らむ
  高き日に 地は日照り
  猪は死に 皆人飢ゑむ
  柱立つ かしこき森に
  火をつけなゆめ

アデーレは巫女の返し呪歌を歌った。顔に似合わず、いい声をしている。

「本当に、本当に東海岸に連れていってくれる?」

突然、マリーシャが顔を上げた。目頭に残る涙を懸命にぬぐっている。

「そんなに海が見たいのか?」

「もちろん」

アデーレの問いに僕が割って入った。マリーシャがこちらを振り向いた。口元は笑っている。目は、何だか怒っているみたいだ。

「じゃあ行こう。連れてってやるよ。こちらがゴタゴタする前にね」

「やったあー!」

僕らは互いの手を握りあって喜んだ。


Notes:

  1. 八九二年、サロティア銀山で採掘にあたっていた奴隷を、グレスドール北部の荒野を開墾させるために移住させた。しかし折悪くこの年は伝染病が流行し、病死する奴隷が続出。その状況に耐えかねた一部の奴隷が反乱をおこし、グレスドールに駐留していた部隊によって鎮圧された。鎮圧に際しては女性や子どもに至るまで一人残らず殺されたと伝わっている。その大半が中央大陸人であったことから、殺害を予定した上で移住させたと考えられている。
  2. 大陸北端の地方で見られるオーロラのことを指すと思われる。
  3. 世界の柱については至る所に伝承されている。特にファシュルにおいては、巨木が柱と見なされる傾向が強い。森の民が奉じていた森の主も一種の世界の柱といえる。