第二章 水沸谷(1)

第一章 魔女再来(3)

(2)

 消え方と同様、アデーレの現れ方は唐突だった。ある朝僕が食堂に下りると、そこに彼女がいた。明らかに草原の民と見える一人の女の子を連れて。それが、僕とマリーシャの出会いだった。

 のちに、僕とマリーシャはいくつかの曲折を経て北方草原で暮らすことになった。確かにそれは、結局のところアデーレの功績によるものだ。ファシュルの多くの人々は彼女を「南の龍」、「テイリールの黒い魔女」と畏敬の念と共に呼ぶ。でも実際のところ、彼女はそんなに恐れ多い人間ではないし、尊敬に値する人間ではないと思う。少なくとも、当時僕の目に映じた彼女はそんなご大層な人間ではなかった。

 腕っ節が強く、確かに馬術と弓の腕前は他の追従を許さないものがあったみたいだ。でもそれは普通の戦士の範疇に納まるものだっただろうし、決して突出した戦闘能力を持っていたとは思えない。確かに、体は強かったのだろうとは思う。まあ、僕は彼女が実戦で戦っているところに居合わせた経験はないのだけれど。

 たぶん人々は、彼女の背景にある物語にひかれたのだと思う。海の彼方からこの地にたどり着き、名を挙げ、再び去っていくという。そう、彼女は去っていくことによって人々の愛と尊敬を勝ち得たのだ(そうでなければ完全に人騒がせな厄介者だったはずだ)。

 僕はそうした畏敬の念を拭い去った、素のままに近い彼女を伝え残しておきたい。まあ、彼女なんかに比べれば、僕は決してうまい語り手ではないのだけれど。とりあえず、彼女に関する基本的なことを話しておこうと思う。

 彼女はこの物語が始まる一八年前にファシュルへやってきた。詳しい経緯はわからない(そのことに関しては彼女もわからないようだった)。とにかく、ある朝砂浜の上に横たわっていたのだ。おそらく、乗っていた船が難破したか何かなのだろう。のちに南部連合の将軍となるヒジュロスさんがそれを見つけ、連れ帰って介抱した。意識はなく、体温も低くて明らかに絶望的状況だった。なんとか一命は取り留めたものの、困ったことに両者のあいだで意思の疎通がうまく図れない。彼女はファシュルの言葉をほとんど理解できなかったのだ。だいぶあとになってわかったことだけど、彼女はいわゆる中央大陸 1からの漂流者で、僕たちのいうところの西方三異種族 2の出らしい。このことは、あとで彼女自身が僕にしてくれた話を再現したい。

 その後彼女は、当時傭兵隊の隊長をしていたガルシアに引き取られ、公式には彼の養女ということになった。養女とはいえ、二人の年の差は一二かそこいらしか離れていなかったのだけれど。だからガルシアが世を去る直前の頃は、「養女にして女」という形容詞が彼女について回ることになった。それは、今でもあまり変わっていない。

 彼女がガルシアのことをどう思っていたのかわからないし、ガルシアが彼女のことをどう思っていたのかはもっとわからない。でも、たぶん二人のあいだには何もなかったのではないかと思う。いくつもの浮き名を流しながらも、ガルシアは最後まで所帯を持たなかったし、彼女には全くといっていいはど男の影がなかった。そうしたこともあって、彼女はいまだにガルシアのことが忘れられないのだと考える輩はあとを絶たなかったけれど。

 でも、彼女が男を作らなかったのは仕方がないような気がする。だって、どう贔屓目に見ても男が寄りつくような女ではない。むしろ恋人としてはごめんこうむりたい部類だった。まあ、大勢いる中の一人の友人としては楽しい人間ではある。百人に一人ぐらい居てもいいかなとは思える。百人に一人ぐらいは。

 とにかく、推定年齢七、八歳の彼女は傭兵隊隊長ガルシアの養女となり、シャニィと名付けられる。素質があったのか、ガルシアの指導がよかったのか、たちまちに腕を上げた。とりわけ弓の腕前に関しては今に至るまで大陸一と讃えられている。このあたりの経緯はある程度年配の人間ならたいてい知っていることだ。

 彼女がファシュルに来て八年後、突如ガルシアが世を去った。まだ二九歳だった。原因はいまだ不明。暗殺か自殺かどちらかであることは確かなようだ。それから一〇日とたたずにトリエラは陥落し、彼女も死んだということになった。

 でも、彼女は死んでいなかった。一〇年後、突如水沸谷に姿を現す。その空白の一〇年間をどこでどのように過ごしたのかはわからない。それとほぼ時を同じくして、帝国は草原への南進を開始。北の草原の民のほとんどが草原を追われ、さらに北の地へ送られた。

 僕が帝国の手を逃れ、水沸谷に落ち延びたのは、いくつもの幸運な偶然が重なったからだった。むろん彼女との出会いもその幸運のうちの一つだ。草原北部から南下してきて、ソレティア廃墟で彼女に出くわした。その時彼女はアデーレと名乗った。魔女という意味だ。この呼び名はガルシアの生前から一部の人間のあいだで使われていて、彼女が再び姿を現してからは本来の名にとって替わってしまった。憎しみと恐れと侮蔑に満ちた名前だ。

 それでも彼女は好んでアデーレと名乗った。理由はよくわからない。彼女は他にも名前を持っていたようだ。でも、聞いてのとおりどれも本名ではない。彼女の本当の名前は誰にもわからない。だから、ある意味で僕が語ろうとすることは、シャニィあるいはアデーレと呼ばれる、一人の名を忘れた女戦士の話ということになるかもしれない。

 前置きが長くなってしまった。とにかく彼女について話そう。伝聞でも推定でもなく、僕が目にしたアデーレであり、シャニィである人物の姿を。

 それは、僕が水沸谷に来て間もない冬の初めのある朝に始まる(彼女を正鵠ぬきのシャニィと理解した上で関わりを持ったのはこの時からだ)。そして、彼女がアシュレ川北の陣から南海岸に駐留していたケディア軍のもとへ向かった三日後、僕らが再会した家族と共にグレスドールで迎えた夜に終わる。

 彼女は僕と最初に会った時とほとんど同じような格好をしていた。もうここは本格的な冬を迎えていて、三日前に雪が降ったばかりだ。乾季の草原とはわけが違う。それにもかかわらず、膝上丈の袴、素足に藁草履と脚絆。さすがに上は長袖になってるけど、どう見ても寒そうだ。対して、彼女に連れて来られたらしい少女は、毛皮のマントをきつく体に巻き付けていた。

「あら、久しぶり」

僕に気づいた彼女は、バジルダットとの話を打ち切ってこちらを向いた。僕は突然のことに驚き、なんと答えていいかわからなかった。

「お仲間を連れてきたよ」彼女は親指で傍らに居た少女を指した。「あんたと同じだ。偶然水汲みにいっていて、帝国の包囲網から逃れられたらしい」

 その少女は椅子から下り、丈の長いマントにつまずきそうになりながら立ち上がった。

「チェール族の長グルガンの娘、マリーシャと申します」

彼女は小さくお辞儀をした。しっかりしているけど、たぶん僕より年下だ。

「キタイ族、ジョルディオンの息子リェイジュン。事件のせいで、まだ成年式は済ませていないんだ」

マリーシャの顔が少し和らいだ。
「なんだ。早く言ってよ。緊張しちゃったじゃない」

 僕ら草原の民は、大人と子どもの待遇についてはかなり厳密に区別している。成年式を済ませ、大人として認められると、言葉づかいだとか、男女の食事の同席の可否などかなりの制限が出てくる。子ども同士だとそうした煩わしさがなく、かなり気楽なのだ。

「ねえ、あなたの居住地はどこ? 私は曲岩の近くなんだけれど」

「僕は北州野だ。どうやら、帝国は東側から西側へと手を伸ばしているらしい。僕の居住地が襲われる前日、ニイデンの長が川を越えたという情報があった」

 僕の居住地は草原北東部、湾曲したアシュレ川の南岸だった。曲岩はそこからだいぶ西に行った地にあたる。
「帝国はいくつもの巧妙な手を使っている。理由をつけて、川の向こう側に草原の民を呼ぶんだ。それも、豊作であまった作物と羊を交換してほしいとか、いかにも他意のないように見せかけて。それに乗って出かけていったものを人質にして、男らをおびき寄せる。手薄になった居住地を包囲して、女子供を連れ去ってしまう」

アデーレはため息をついた。

「連れ去られた人たちはどうなっているの?」

マリーシャが身を乗り出すようにして聞いた。

「詳しい情報は伝わってきていない」アデーレは首を振った。「ただ、私の想像が間遠っていなければ、おそらく大陸北東部の銀山に連れていかれただろう」

「間違いあるめえ」バジルダットが口を挟んだ。「昔から、奴隷狩りというのは珍しいことじゃない。現に、九年前の中央大陸侵攻 3の折には多くの人間が連行されてきたという話じゃないか」

「ああ。あれは悲惨極まりない事件だった。地獄絵とはああいうものをいうのだろう。地獄というのは人間が地上に作り出すものだということをつくづく思い知らされたよ」

僕は思わずアデーレを見た。九年前、彼女はその現場に居合わせたのだろうか。

「とにかく、飯にしよう。何か熱いものを腹に入れたいだろう」

バジルダットがマリーシャに目配せをした。

 朝食をとりながら、僕らはアデーレの口から最近の北と南の動向を聞いた。北にいる草原の民は半数近くの部族が帝国の手に落ちたということ。アデーレが注意を呼びかけにいっても門前払いをくらうこと。南の草原の民は門前払いどころか、彼女を見つけると逃走するか襲撃してくるということ。義兄のヒジュロスは彼女と組んで再び統一戦線を結成するつもりだが、反対者がいること。どうもそれは彼女自身の悪名高さが原因らしいということ。などなど。

「要はさ、お前がいない方がいいんじゃねえのか?」

バジルダットがもっともなことを言った。

「やっぱりそう思うか」
彼女は悪びれた様子もなく肩をすくめた。

「だいたいさ。なんで今さら戻ってきたりしたんだよ。一〇年だぜ。一〇年。あれから俺たちがたどった末路はかなり悲惨極まるものだった。みんなお前のせいだと言うつもりはない。だがな、あのトリエラでお前が姿を消したことは大きな痛手だった。もっとうまく立ち回るべきだったんだ。帝国以上に、お前は味方の中の敵に注意する必要があった」

彼女は熱いお茶をすすりながら無言でうなずいている。

「それは反省している。だがな、あれは本当に不意討ちに等しかったんだ。ガルシアが死んで私も動転していた。態勢を立て直すには時間がなさ過ぎた。何しろ葬儀前夜だったんだ。あの市街戦は」

 僕とマリーシャは思わず顔を見合わせた。「味方の中の敵」?

「それって、味方だと思っていた人に裏切られたってこと?」

マリーシャがおそるおそる尋ねた。

「ああ。状況的に見てそれ以外考えられん。夜中に目が覚めたら私の部屋は火に包まれていた。脱出しようにも、扉は内側からは開かないようになっていた」

「そ、それで、どうやって逃げ出したの?」

僕の問いに、彼女は首を振った。

「覚えていない。気がついたら、ほとんど全裸で山の麓に横たわっていた。生きていることが知れれば命はあるまいと思って、山沿いに身を潜めながら逃げた」

「で、そのあとは?」

「西大陸経由で中央大陸に渡った。私の素性に関して何かわかるかもしれないと思ってね。でも結局何の手がかりもないまま、カポイル侵攻の巻き添えをくった」

 彼女は言葉を切り、空になった湯飲みにお茶を注いでいる。よほどついていないのか、彼女がそういうものを呼び寄せてしまうのか、ずいぶんとまあ戦に縁のある人生だ。僕とマリーシャは黙って続きを待っていた。

「そして、帝国に連行され北銀山に送られた」

でも話を継いだのはバジルダットだった。彼は何かを探るようにアデーレを見つめている。

「確かにそうよ。そして私はそこから逃げ出した。逃げ出してきた奴隷であり、お尋ね者」

「それだけではないんだろう。帝国は恐れている。必要以上に『魔女』を恐れている。何か大事な機密か、あるいは大事な人間か。いずれにせよ帝国にとって都合の悪いものをお前はあそこから持ち帰った。違うか?」

アデーレは笑い出した。

「そんなものがあるなら、私はここに戻らず、どこかでそれを売り払っているだろう。払にわかったことは一つ。帝国の基盤は意外と弱い。一部の人間が富を独占していて、特にあとから支配下に組み入れられた地域では上層部への反発が大きい。それを利用すれば、あるいは簡単に潰れてしまうかもしれない」

「それを種にして南部の人間を取り込み、また北と一戦始めようって言うのか?」

バジルダットの言葉には明らかに非難の響きがあった。

 僕たちは口を挟むことさえできず、ただ二人のやりとりを聞いていた。

「いや、そういうわけじゃないんだ」

「じゃあ、いったいどういうつもりだ」

アデーレは少しためらうように天井を見つめている。バジルダットが何かを口にしようとした瞬間、彼女は思い切ったように口を開いた。

「ディラスケスが破られるのは、そう遠いことではないと思う」

言い終えると、彼女は目を閉じてため息をついた。

「なんだって? 帝国は草原を越えて南側まで支配するつもりなのか?」

「おそらくは。奴らは草原も領有するつもりでいるらしい。開墾のためと思われる植民が草原北東部で始まっている」

 僕は思わず立ち上がった。僕たちの居住地のあたりじゃないか。そうだ、僕は草原の人間なんだ。僕たちの問題でもあるんだ。今僕たちが動かないと、住む場所さえなくなるかもしれないんだ。

「ねえ、僕も行く。だから南にいる草原の民を説得しよう。それで帝国側に交渉を申し入れよう」

突然僕がしゃべりだしたから、皆一様に驚いた顔をしている。

「連れていかれた人を返してもらうんだ。僕たちだってこのままずっと家族と離れたままだなんて嫌だ。そうだろう?」

機はマリーシャを見た。同意を求めるように。

「もちろんよっ! このままやられっぱなしで引き下がるなんて嫌だもの。がつんと一発くらわせてやらなくちゃ」

「あのなあ。がつんと一発こっちがもらってあの世行きだ。戦を知らない子どもは黙っていろ。まずは根回しというものが必要なんだから」

バジルダットは腕を組みため息をついた。その様子をアデーレが笑顔で見守っている。

「あんまり老兵をこき使わないでくれ。言っとくけどなあ。これっきりだぞ。これっきりだ。俺は草原の民もテイリールの人間も大嫌いなんだから。ジョルディとガルシアを除いてな」

二人のあいだで取り引きが成立したのだ。おそらく、彼が交渉役として乗り込むということで。

「期待してるよ。交渉名人バジット」

「けっ。仕方ねえ。正鵠ぬきのお言葉だからな。本来ならば耳を塞ぐところだがここは一肌脱ごうじゃないか。敵さんがディラスケスを渡るとなれば、ここも枕を高くして寝られないからな」

 彼は立ち上がった。アデーレが立ち上がり何か言いかけるのを彼は目で制した。わかっていると言いたげに。

「やるなら早い方がいい。とりあえず、俺だけで行く。だめならば子どもたちの手も借りるかもしれん。俺が戻るまで、二人と一緒に待っててくれ。いいな、絶対だぞ」

「わかった」アデーレはしっかりうなずいた。「ちゃんとここで待つよ。私が行くと話がこじれるだろう」

「ありがとう。おじさま」

「お礼は交渉が成立してからだ。マリーシャ」


Notes:

  1. 現地人はエルタルフラ大陸と呼んでいるが、ここを中央と見なして他の大陸を西東と呼ぶことには、世界の柱伝説が根底にある。龍を押さえ、世界を支えている柱は九本あり、中心の柱はエルタルフラ大陸北部にあったと言い伝えられている。
  2. ケディア、ラミウス、セノアという三人の王を祖とする中央大陸人を指す言葉。この三人が起こした反乱により魔法で栄えたトラピア王国は崩壊。三王国鼎立時代の後に統一国家となる。この当時既にケディア派が国政の主導権を握っており、彼らの統一国家はケディア王国を名告っていた。
  3. 八九一年にカポイルは中央大陸に侵攻し、ケディア北部を事実上支配下においた。カポイルとケディアの対立のように見えるが、実際はカポイルと手を結んだラミウス派によるセノア派排除のための攻撃。最大勢力のケディア派はこれ以前に西大陸南東部のキアラに逃れており、ユリーツィアに侵攻したのは彼らを主力とする部隊。