(2)へ
僕はしばらくのあいだ呆然としていた。逃げるべきだった。女は馬を置いていったし、水筒には水が詰まっている。このままこの馬にまたがって逃げてしまえばいいのだ。
でも、できなかった。馬を盗んだところで僕にはもう行く場所がないんだ。疲れて体が痛い。もう、どこへも行きたくない。追手がいるなら早く僕を捕まえてくれ。そうすれば、少なくとも僕には行く場所ができる。
それにしても、どうしてこんなことになってしまったのだろう。男たちが川を越えたから? それはあの日の夜更け、東隣の部族から来た男と関わりはあるのだろうか? そうだ。あの川越えの直前に来た男。あれが何か厄介な事態をもたらしたんだ。騒然とする居住地内で口々にささやかれていた、「ニイデンの長」と「魔女」。どこかの長が魔女に捕まったのか、魔女と帝国が手を組んだのか。どっちにしたって事態は最悪だ。子どもは黙っていろの一点張りで、大人たちは何一つ教えてくれなかった。僕を置いて誰一人居なくなるんだったら、せめて何が原因なのか、把握できる程度の情報をくれたってよかったんだ。
どのくらいそこでそうしていたのだろう。あの女が二頭の馬を引いて現れた。おそらく、追手が乗ってきたものだ。
「喜べ。馬が手に入ったぞ。それに、奴らの本当の目的はあんたをつかまえることではなかったようだ」
そんなこと言われたって、素直に喜べなかった。
「どっちにしたって同じだ。僕には行くところなんてない。追手に捕まらない限りはね」
僕はぶっきらぼうに答えた。はっきりいってもうどうにでもなれと思っていたのだ。
「馬鹿! せっかくの幸運をみすみすふいにする気かい? ジョルディオンの息子リェイジュン」
僕はびっくりして女を見上げた。女は僕の肩をつかんだ。
「まさかこんなところで殿下のご子息にお会いするとは、奇妙な巡り合わせだ。いいかい。まだはっきり言い切れないが、お父上たちは何らかの奸計に引っかかったと見える。あなたより先に、南に向かった人間が居るらしい。奴らが追っていたのはその人間だ。だが奴らはあなたの素性については知っているらしかった」
女は僕の素性について追手から聞き出したようだった。しかも、こいつは父を知っている?
「父を知っているの?」
「はははは。ようやく素性を明かしたな」
女はようやく僕の肩から手を離した。かなり強い力だった。跡がついているのではないだろうかと思うぐらい強い握力だ。
「道理でどこかで見た顔だと思ったわけだ。知っているも何も、私に馬術をたたき込んだのはジョルディ殿だ。当時まだ一六かそこいらで、私の養父とも非常に仲がよかった。そうした関係から私も懇意にさせていただいたわけだが―今は昔の話をしている場合じゃない。あなた以外の一族は、全員捕らわれの身になっている可能性が高い。また知り合いがいない以上、南の人間を頼るのも危険極まりない。ここから半日ほどで水沸谷 1に出る。そこには私とお父上共通の信頼のおける友人がいる。しばらくはそこに身を隠すのが賢明だ」
僕は改めて女の顔を見上げ、その黒い瞳を見つめた。でも、闇のような深さを持つ瞳は嘘を言っているようには見えない。
「ありがとう。僕は今まで誤解していました。あなたは統一戦線の残党で北側や草原の民に敵意を抱いているのではないかと」
女はしばらく目を見張っていたが不意ににっこりと笑った。
「あなたは鋭い目をお持ちのようだ。確かに私は統一戦線の残党中の残党で、帝国側にとっては蛆か膿のような存在だろう。だが、今は南だの北だのといっている場合ではない。それがどんなものであれ、自分が生き延びる道をとることだ。詳しい話はあと。さらに東に進むとディラスケス川上流の川原に出る。今夜はそこに泊まろう」
女、いや、アデーレに促されて追手たちから強奪した馬にまたがった。彼女の馬ほどではないが、たくましく丈夫そうな馬だった。とにかく、旅には馬、草原の民にも馬ってものだ。我々は廃墟をあとにして川原へと向かった。
「じゃあアデーレを育てたのは統一戦線の副将ガルシア 2だったんだ」
「ああ。最終的には副将だったけれど、もとは傭兵隊の頭をしていたんだ。あんたぐらいの年頃の人間が、あの人の名を知っているとは思わなかったよ。父上から聞いたのか?」
彼女の問いに僕はうなずいた。関わりあいになることを避けていたみたいだけど、僕ら草原の民が、戦争について全く無関心だったわけではない。
将軍カーディス・ゼイラン 3。副将ガルシア・テイリール。正鵠ぬきの異名を持つ黒のシャニィ 4。居合のラゴレス。セルクリッド 5の決戦。ティリーラ 6の陥落。大まかな戦の流れはある程度知っている。それに、戦が激化する前は若干の交流はあったみたいだった。
「大人はみんな知っているし、いろいろなことを話してくれるよ。それより、ガルシアってどんな人だったの?」
「とにかく、腕っ節が強くてね。そればかりか薬草学にも通じている多才な人だった。常に技術や知識を磨くことを怠らなかった。一戦士として最強であることを目指しているように見えたな。はっきりいって人の上に立つのはあんまり得意そうには見えなかった」
夕飯を終えた僕たちはお互いのことをしゃべりあった。僕は彼女を信用して、洗いざらいしゃべってしまったけれど、彼女が洗いざらいしゃべったのかどうかはわからない。
何しろ、彼女は僕なんかより一〇年以上長く生きているわけで、統一戦線全盛時代をここで過ごしていた人だから。おそらく、二晩話したって語り尽くせないようなたくさんのことがあったに違いない。
「そういえば」
話題が途切れたところで、僕は気になっていたことを尋ねた。
「こっちの方に魔女の噂はないの? 冥界の蛇のように不死身で人の心臓を食らって生きているって話、聞いたことない?」
彼女の動きが止まった。焚き火の光を受けた彼女の顔は驚愕の色に染まっている。
「や、やっぱりあるんだ」
「ぶっっっ」不意に彼女は噴き出した「はははは。はっはっはっはっは」
「ど、どうしたのさ」
「それ、私だ」
「はあ?」僕は思わずすっとんきょうな声を上げた。「私って・・・どういうこと?」
「私が魔女だと言うことさ。これは統一戦線時代から有名な話なのに。今さらそんな噂が流れていたのか? 私は誤魔化さずに名乗ったはずだ。アデーレと。つまりこれは略称で、本当は「アデライーデ」。あなたたちの言葉でいう「ヘデライデ」と同じ言葉ってことだ」
「えーっ!?」
「なんだ気づいてなかったのか。人を射ればその矢必ず急所を貫き、人に急所を貫かれるともその身死ぬることなし。かつてはそういわれて恐れられていたものだけど、人の噂も四九日ってやつか」
「いや、七五日だと思う」
僕は目の前にいる女を改めてまじまじと眺めた。どう考えても「魔女」という呼称がピッタリ来るような女ではなかった。魔女という言葉につきまとう陰険さや陰気くささはこの女には当てはまらない。
「ねえ、そ」
不意に、彼女が私に黙るようにと人差し指を口に当てた。砂利を踏み締めるような音が、僕たちが身を隠している大岩の向こうから響いてくる。
彼女は音一つたてずに立ち上がると、いとも簡単にその岩を乗り越えた。僕はただ耳を澄ませていた。何かが風を切るような音がした。続いて何かが水の中に入る音が響いた。
「バシャン」
「ヒイイーン」
狼狽し慌てるような気配と水しぶきがたてる音。馬のいななき。川面が波打つような音が聞こえてきた。やがてアデーレは再び岩上から姿を現した。
「三人。みんな川下りをしにいったよ」
彼女の手にはいつの間にか弓が握られている。
「それでやったの?」
「当然。先制攻撃にこれほど最適な武器はない。何しろ向こうには飛び道真がないんだから」
「でも、真っ暗だったじゃないか」
「私は魔女だ。夜目ぐらいきく」
彼女は笑った。でも、魔女の高笑いとは似ても似つかなかった。
翌朝起きて、川一帯を捜索したが、昨日の証拠となるようなものは残されていなかった。先に起きたアデーレが、きれいさっぱり片づけてしまったのだろうか。ただ、川向こうに新たな馬が三頭所在無さげに草を食でいるだけだった。
「二日間で馬を五頭手に入れるなんてついているな」
彼女はこの馬を全部引き連れていくつもりらしかった。
「みんな水沸谷へ連れていくつもりでいるの?」
「当然」彼女は焼きたての魚をほおばりながら言った。「私のお節介が原因とはいえ、関係のない追いかけっこに巻き込まれたんだ。もらえるものはいただいていく」
彼女の言葉に僕は思わず小さくなった。
水沸谷についたのはその日の午後のことだった。彼女のいう「近道」を使ったおかげではあるのだが、それは馬に乗っていなくても二度と通りたくないような代物だった。とにもかくにも、僕らは馬も含め全員無事にここに到着することができたわけだった。僕らを迎えてくれたのはバジルダットという名の中年の男で、自己紹介する前から、僕の父の名を言い当ててしまった。
「ジョルディの息子を連れてくるんだったらそうと言っていってくれればよかったのに」
「まあまあ。今回は偶然だったんだ。とにかく、食事と寝床を用意してやってくれ。アシュレ川の居住地から、ソレティア廃墟まで徒歩でやってきたんだ。詳しい説明はあと。とにかく休ませてやるのが先決」
「わかったわかった。二階の空き部屋を使ってくれ。いつでも使えるようにしてあるから心配ない」
「リェイジュン。自分の荷物を部屋に運んでくれ。私は馬を馬屋まで連れていく」
僕は言われるままに、馬上から自分の荷物を引き摺り下ろした。とにかく疲れていて、口をきく気力もない。
「なんで馬が五頭もいるんだ?」
外に出てきた男は、人間と馬の数があまりにも不釣り合いなので首を傾げている。
「いいから、早く彼を案内してやってくれ」
アデーレは面倒くさそうに言い捨てると、計六頭の馬を坂の下にある馬屋へ連れていった。果たしてみんな入りきるのかどうか、僕としては甚だ疑問ではあったのだけれど。
「よし、部屋は二階の隅だ、ついてきな」
バジルダットは僕の荷物を受け取ってくれた。僕はアデーレを見送り、彼の案内に従った。
「おめえ、あの『近道』通ってきたのか?」
「う、うん」
「すごい勇気のある奴だな」彼は非常に感心あらわな顔で僕を見つめた。「あそこは、あいつ以外は絶対通らないんだ。でも何より立派なのは、あいつを恐がらずについてきたことだ」
翌朝―と、いうのも僕はベッドに入ったとたん、眠りに落ちてしまったからなのだけど―アデーレの姿は消えていた。なんでも北の動向を探り、南にいる友人と連絡をとると言うことらしい。
でも、そんなことは当てになるもんじゃない。だって彼女は馬を置いていったのだから。そして、置き去りにされた彼女の馬と戦利品の五頭の馬は、僕が面倒を見ることになった。
僕は、本当に彼女は南に向かったのかと、バジルダットを何度も問いただした。でも、彼はそのたびに間違いないだろうと言った。
「馬なしでどうやってディラスケスの南に行けるっていうのさ」
僕は食い下がった。あれだけの距離を歩くことなんて絶対無理だ。きっと近くに居るに決まっている。
聞きたいことがたくさんあった。カーディスのこと、ガルシアのこと、いくつもの戦いのこと。それだけじゃない。きちんとお礼を言いたかった。それなのに、御伽話の女神みたいに目覚めたら居なくなっているなんて。そんなのってひどすぎる。
「シャニィの飛龍がいねえ。おそらくそちらを使ったんだろう。今の時期は気流が安定しているんだ。うまく上昇気流に乗れば、山伝いにユリーツィアまで一気に行ける」
「は?」
僕には彼の言葉の意味が全くわからなかった。シャニィの飛龍?
「ああ。あいつは魔女の名を名乗ったのか」彼は面倒くさそうな顔をして頭を掻いた。「アデーレ・アデライーデは比較的最近に通り始めた彼女の通り名だ。本名はシャニィ。ガルシアが名付けたんだ。親父から聞いてねえのか?『的を射ればその矢必ず正鵠を貫き、人を射ればその矢必ず急所を貫く。人に急所を貫かれるともその身死ぬることなし。人呼んで正鵠ぬきのシャニィ』それがあいつだ」
「えっ、じゃあ。統一戦線副将ガルシアの養い子、黒のシャニィってのは…」
僕はうかつにもそこまで言われてようやく合点がいった。今思えばなんで気づかなかったのか不思議なぐらいだ。彼女は親父が昔の話をすると必ず出てくる人間の一人だった。騎射を得意とする弓の名人がいた。そいつに馬術を教えたのは俺だったんだと、酔いが回ると必ずする話の一つで、すっかりおなじみになっていたはずだった。でも、その当時彼女はとっくに死んだことになっていたのだ。
「あいつのことだよ。なんだおめえ、今まで気づかなかったのかよ?」
バジルダットはあきれかえった顔をしている。
「だ、だって、そんな。彼女が噂の魔女だったってだけでも驚きだったのに。それにっ、それに昔の噂では死んだってことになってたはずじゃあ…。ああっ! どうせなら追手を片づけるところを見学するべきだった。畜生、なんてこった」
その冬一番冷え込んだ朝、ファシュル大陸西岸の砂浜 7に一人の娘が打ち上げられていた。もう、今から数えると三〇年以上も前の話だ。黒い髪と黒い瞳を持つ娘は名前も生まれもわからなかった。彼女を発見したのは、のちに南部連合軍将軍となるヒジュロス 8。彼女を養い子としたのは統一戦線副将ガルシア。二人によってシャニィと名付けられた娘は、やがて正鵠ぬきの異名を持つ優秀な戦士へと成長した。
しかし東歴八九〇年、統一戦線壊滅の直前にガルシアが不審な死を遂げ、それと同時に彼女もまた炎渦巻く市街戦のさなかに姿を消した。誰もがその死を噂した。しかし当時その死を見届けた者も、遺体を見た者もいなかった。
それから一〇年。彼女は東谷地方に再び姿を現した。僕が彼女に出くわしたのはその直後のことだったのだ。魔女再来の噂は瞬く間に大陸の北へ、その存在を恐れる帝国のもとへと広がっていった。
そして彼女は大陸の南奥へと向かった。義兄ヒジュロスが今なお実権を遮る、ディラスケス川の南、ユリーツィアヘ。それがファシュル全体に大騒動をもたらす事件であるということに当時の僕は全く気づいていなかった。
Notes:
- 蒼龍山脈と辰爪山地に挟まれた地域を指す。酸性度の高い温泉で現在に至るまで有名。アデーレが入ったと伝わる温泉が残っており、魔女の湯と呼ばれている。 ↩
- ガルシア・テイリール・ディル・ソレティア(八六〇~八九〇年)。武器商人の家に生まれたが傭兵になり、第二次統一戦線で傭兵隊隊長を務める。セルクリッド陥落(八八八年)の折に副将ラゴレスが戦死したあと、その後任とし抜擢されたらしい。彼の息子とされる人物もガルシアという名なので、本文では名前の前に大小をつけて区別している。 ↩
- 伝未詳。ゼイラン姓はエルダリア地方南部に多く、そのあたりの出身と思われる。彼の名は『魔女来歴記』や『ファシュル戦記』などに見えるが、その素性については言及されていない。 ↩
- アデーレ本人のこと。本名シャニィ・テイリール・ディル・ソレティア。この時点でリェイジュンはシャニィとアデーレが同一人物であることに気づいていなかったらしい。名前の前に黒とつくのはおそらくその黒髪黒眼に由来すると思われる。正鵠ぬきについては二章と三章で詳細に語られているので、そちらに譲ることにする。 ↩
- 死者の谷の入り口に位置していた都市で、ニダラーフェン地方の北端にあたる。北側に対する第一の砦であり、最前線であった。八八八年にここが陥落すると南部同盟は防戦一方となり、トリエラ陥落の直前はほぼ撤退戦の様相を呈していたようである。 ↩
- トリエラのニレドなまりと思われる。 ↩
- 『魔女来歴記』などによると、エルダリア南部の港町イリスタンの南の干潟で発見されたらしい。義兄ヒジュロスはそれにちなんで彼女をイリスと名付けるよう提案したが、ガルシアはその案をとらずシャニィと名付けた。 ↩
- 伝未詳。エルダリアの有力者の家に生れるか、そのような家に婿入りしていると推察される。他の文献にも彼の姓や出身地などは記されておらず、謎の多い人物といえる。 ↩