第一章 魔女再来(2)

(1)

(3)

 振り返ってみたものの、背後の草原には何も見えない。夜が明けて何度目になるか分からぬ安堵の吐息をつく。ずっとその繰り返しだった。追手は馬に乗っているはずだ。徒歩でニレドを越えるなど、よほど差し迫った状況でもない限りありえない。今の僕みたいに。とにかく、馬に勝てるわけはないから、早々に身を隠せる場所を見つけなくちゃならない。そうでなければ迫手より先に南の草原の民のところへ到着するしかない。でも、

「ああ、畜生! なんでまだたどり着かないんだ」

 僕はまた、これも何度目になるかわからない独言を言った。もうとっくについたっていいはずだった。羊の群が遠目に確認できてもいいはずだった。だが、前方には何も見えてこない。

 もう半ば習慣のように回れ右をして、腰に下げた水筒を取り出す。水はこの水筒に残されたもので最後だった。何としてでも今日中に水場にたどり着かねばならない。僕は息をついて歩いてきた方向を眺めた。問題ない。今のところ何も見えない。進むべき方向に向き直り、再び歩き始めようとした時だった。右前方に、何か土色をした建物のようなものが見えた。よくよく目を凝らしてみたが、眼の錯覚や、蜃気楼のようには見えない。

「ようやくついたんだ」

 僕は思わず駆け出した。これで少なくとも水分の補給はできる。あわよくば追手も諦めるだろう。でも見れば見るほど変な居住地だった。いくつかの小さな建物が離れて立っているようだが、周辺に羊や馬の姿が見えない。小さな族の居住地にしても様子がおかしい。

 一連の疑念は到着と同時に晴れはしたものの、期待は失望に変わった。何となれば、そこは、完全な廃墟 1だったのである。崩れ落ちたいくつもの焼き煉瓦の家。風化しつつある柵。完全に枯れてしまった木々。割れた食器の欠片。樽の残骸。僕は文字どおりへたへたと座り込んだ。この周辺に水場があるという話は聞いたことがない。そもそも僕はここに来たことがない。おそらく、普段近づかない草原の東南のはずれだろう。統一戦線時代に壊滅させられた廃墟があると、父たちから聞かされていた場所だ。ということは、僕は考えていたよりかなり東よりの針路をとっていたことになる。

 もしもここが草原の東南のはずれならば、最寄りの水場はディラスケス川か、北西にかなり戻ったところにある井戸の二つ。いずれにしても、今からでは向かえない。夜明け前から歩き詰めだった体は、とっくに限界に来ていた。

 僕はがくがくする足を引き摺って、かろうじて立っている壁の影に座った。唯一の救いは、追手を撒けるかもしれないということだ。動けない今としてはそれを祈るしかない。

 眼前に、一本の大木が立っていた。完全に枯れいて、枝は落ちてしまったのか、一本もない。それでも、幹は今なお空をさして立っている。小さい頃大叔父が言っていた、巫女の大木 2というのはきっとこういう木のことなんだろう。

 確か大きな木があって、それに仕える巫女がいて、巫女は死んでしまって。死んでしまって…どうなったんだっけ? 思い出せない。大叔父も死んでしまって、今では誰も、誰も……。

 不意に体が左右に揺れた。

「おい、大丈夫か?」

 聞き慣れぬ声に僕は思わず体を起こした。不覚にもいつの間にか眠っていたのだ。

「いったいこんなところで何をしているんだ、少年」

 耳慣れないなまりに思わず僕は声の主を見上げた。女だった。これが僕とアデーレの出会いだった。あの時の彼女の姿は今でもよく覚えている。黒い髪、真っ黒な瞳。どう見てもこのあたりの人間ではない。腰には二本の短剣を帯び、手には手甲をはめ、矢筒を背負っている。鎧こそまとってはいないが、かなりの重装備だ。しかも、ただのこけおどしではない。むきだしになった二の腕は明らかに鍛えられたものだった。

「私の言葉がわからないほど北から来たのか?」

やはり若干のなまり、いや、僕らとは明らかに調子が違った発音だった。僕が黙っているものだから、僕には言葉が通じていないと思ったらしい。

 それでも僕は黙って女を観察した。中肉中背、いや、筋肉中背。異様に黒い瞳。頭の高い位置で一つに束ねられた髪は漆黒。だが、光の加減で何となく濃い赤のようにもみえる。

「‥*‥‥*※/*#」

今度は、僕には明らかにわからない言葉で話しかけてきた。それでも僕は黙っていた。本当にこいつが信用できるのかどうか、かなり怪しいと思ったからだ。少なくとも草原の民ではない。どこをどう見てもこのあたりでは見かけない毛色をしているし、いくつかの言葉を使う。今となってみれば笑い話だけど、僕は初対面で彼女のことをかなり警戒した。南の者とも北の者ともつかないうちは、うかつにこちらの身分を明かすわけにはいかなかったからだ。

「―・・・―・・―………―」

僕が口をきかないでいると、もう一つ別の言葉でまた話しかけてきた。なんて奴だ、三つも言葉を知っているなんて。

 僕は黙って立ち上がった。何一つ武器を持たない僕はどう足掻こうと太刀打ちはできない。隙を窺って逃げるか、うまく立ち去ってもらうか二つに一つだ。

「僕は平気だ」
とりあえず、口ぐらいはきいてやることにした。そうでないと、この女はいくつでも違う言葉で話しかけてくるに違いないし、それはそれで煩わしいと思ったからだ。

「わかっているなら、黙っていないで返事ぐらいするんだ。それより、喉は渇いていないか? 水でよければある」

 そう言って女は、親指で自らの背後を指した。そこには、大木の陰に休むように一頭の馬がいた。大きな栗毛色の馬で、手入れが行き届いているのか毛並みが美しい。僕の目が馬から離れないのを見て取ったのだろう。女はかすかに笑い声をたてた。

「ふふふ、水より馬の方が欲しいのか」

 女が歩き出したので僕はそのあとに従った。喉の渇きは感じている。だがそれ以上に、その馬を間近で見てみたかった。

「はいよ」
女が僕の方へ水筒をよこした。それを黙って受け取り、僕は水を飲むことも忘れて馬に見入った。今まで眼にしてきたどんな馬より、それは大きかった。どことなく、容易に人を寄せつけない威厳のようなものがある。

「あんたは目が高い。いい馬だろう」

確かにいい馬なので、僕は黙ってうなずいた。

「大きさに似合わず、乗手の指示には結構機敏に反応する馬なんだ。あんた、草原から来たんだろう?」

僕は思わず身構えた。話が僕の素性に及ぶと思ったからだ。

「この子は東の谷で生まれたんだ。だから、草原の馬以上に足が丈夫にできている。何しろ、あそこは高低差が激しいところだからね。それより、早く水を飲みな。空にしたって構わない。水場はそう遠くないところにある」

「ありがとう」

僕は言葉に甘えてほとんどの水を飲んだ。ひどく喉が渇いていたし、この女は見かけほどには悪い人間ではなさそうだった。

「ディラスケス川の居住地へ向かうんだろ?」

「そのつもりでいる」

「この場所からでは仮に馬で行っても半日以上かかる」

 僕は思わず目を見張った。まさかそれほどまでに針路がずれていたとは。それにしても、なんでこの女はこのあたりの地理に詳しいのだろうか。やはり、南の人間なんだろうか。

「これも何かの縁だ。急いでいるのでなければ、今夜はここで一緒に野営しよう。私の名はアデーレ。ニダラーフェンのアデーレ 3だ」

「ニダラーフェン?」

聞き慣れない言葉に、僕は思わず首を傾げた。

「あんたたちの言葉ではニダラーフェシュルと呼ばれていたところだ。一〇年ほど前に滅んでしまったトリエラ 4という街を中心とする地域のことだよ。ここは、そのトリエラの南西部にあたるソレティアと呼ばれていた地域だ。もっとも、あんたの年じゃ知らないか」

女は肩をすくめるとひらりと馬にまたがった。

「水筒を貸しな。水を詰めて来よう。留まるにせよ進むにせよ、水がなければ始まるまい」

僕は首を振った。
「南の人間とは関わりあいになるわけにいかない」

 女は一瞬ぽかんとした表情になり、すぐにけらけらと笑い出した。

「はははははは。私は西海岸で拾われて、没落前のトリエラ下町で育てられたんだ。ディラスケスを越えたことなんて数えるほどしかない。いいかい坊や。大人の言うことには耳を傾けたはうがいい。あなたはあまりにも長く歩き続けた。このまま水なしでディラスケスには出られないだろう」

 そのとおりだった。僕の水も食糧も底をついている。それにこれ以上は歩けそうにない。

「荷物を持って来な。そんなに私が信用ならないなら、一緒に水場まで連れていってやる」

 僕は渋々その言葉に従った。どう考えても、女のほうが一枚上手だ。僕が近づくと、女は僕の手をとって僕を鞍の前に乗せた。何だか非常にきまりが悪い。

 馬は二人分の重さをものともせず、かなりの速度で走った。瓦礫の散乱する廃墟が次から次へと僕らの脇を通り過ぎていく。やがてそれらの廃墟が終わりを迎えると、大きな古井戸が目の前に現れた。女は馬を止め、まず自分が下りてから僕を下ろした。

「まだ使えるの?」

「当然。草原に出る時は、いつもこれを使っているんだ」

そう言うと女は荷物の中からロープを取り出し、自分の水筒に縛り付けて井戸の中に下ろした。ポチャンという小気味のいい音が響いたのを合図に、ロープを手繰り寄せ始める。上がってきた水筒は、確かに水で満たされていた。

「あんたも汲みなよ」

 女に差し出されたロープを受け取り、僕も自分の水筒を井戸に下ろした。汲み上げた水はよく透き通っている。

僕は試しに水を口にしてみた。
「うまい」

「だろ?」
僕が思わず口にした言葉を受けて女は笑った。

「このあたりの井戸水は、山の水に近いんだ。昔からこのあたりの水はうまいことで有名で、ここで造られる酒は非常にうまかった 5と聞く。私は当時あんたと同じぐらいだったから、そんなに飲むことはなかったが。さて、野営にはお勧めの場所がある。そこで荷物を解いたら薪になるものを捜しにいこう」

 しかし、言葉とは裏腹に、馬に向かおうとする女の足は止まった。僕たちが今来た方を探るように見つめている。

「何かが来る。いや、こちらに向かっているのかどうかわからないが。ねえ。あそこに人影のようなものが見えないかい? 馬に乗っている何人かの人間が」

そう言って女は、僕らが来た方向よりやや北の方を指さした。確かにそこには数頭の馬にまたがった人間とおぼしき影が見える。僕ら草原の民はかなり遠目がきく。この女もそれに勝るとも劣らない視力を持っているらしかった。

「僕を追ってきているんだ」

「なんだって?」女は僕の顔をまじまじと見つめた。「あんた追われていたのか?」

「わからない。思い過ごしかもしれない」
僕は唇をかみしめた。油断していた。追手がいないとは言い切れないし、もしいた場合、ここにいることによって奴らを撒けるとは限らない。

「いや、思い過ごしではないはずだ」

不意に女の声が硬さを増したように思えた。

「あんたは草原の北からやってきた。行く先は草原の南。その目的は南の草原の民に会うこと。どうしてかはわからない。おそらくは何かの使いで、それは相談であれ要請であれ、何か北の帝国に関する火急の用だ。違うかい?」
女は鋭い目で僕の瞳をのぞき込んでいた。

 いったいどうしてわかったのか、僕には見当もつかない。いや、初めからわかっていたのかもしれない。南の人間のように見せかけておきながら、実は帝国の人間だったのかもしれない。僕は思わず後ずさった。女はため息をつき、その鋭い視線からようやく僕を開放した。

「やはりそうか。答えたくなければ答えなくていい。あんたの言葉にはどう聞いても北のなまりがあった。それに、徒歩で草原を越えるということは、馬がない、馬を失ったということだ。草原の民が馬を失うということは足を失うことに等しい。つまり、よほどの事態がおきたと考えられるわけだ。その上、あんたぐらいの年場のいかぬ男が選ばれたのは他に選択の余地がないことの表れだ」

女は種明かしをするようにしゃべると、再び視線を追手の方向へ向けた。

「どうやら、奴らは二手に分かれたみたいだ。二人こっちに向かってきている」

女は再び僕の方を見た。

「悪いことは言わない。向こうへ行くのは諦めるんだ。南の草原に知り合いはいるか?」

僕は首を横に振るしかなかった。遠縁の人間はいる。大叔父の一族だ。でも、僕は顔も名前も知らないし、向こうは僕の存在を知らない。

「南に行くにしろ北に戻るにしろ、しばらくは時を伺った方がいい。とりあえずあの二人は畳んでおこう。うまくすればあんた以上に詳しく事情を話してくれるかもしれん」

言うが早いが女は馬に吊してある弓を取り上げ、僕たちがきた方向へ走り去った。


Notes:

  1. 本章末で言われているように当時ソレティア廃墟と呼ばれている場所。八九〇年に陥落したトリエラの下町で、没落前には大ガルシアとアデーレが住んでいたと考えられている。リェイジュンが建立した二人の墓もここにあったようだが、この廃墟の場所は特定されていない。
  2. 現在も「王の歌」の一部としてイルファレン一帯で伝承されている柱姫伝説。しかし当時ニレド地方で伝承されている物語はいくぶん違った内容のようである。おそらく、森とともに巫女が焼け死んだところで話は終わっていたのだろう。
  3. 当時は名乗る際、名前の前に出身地をつけることが普通だった。アデーレはアデライーデの省略形。つまり自ら魔女であると名乗っていることになる。
  4. ニダラーフェン地方の領主テイリール一族の本拠地。トリエラはテイリールの古名。テイリール一族は王または大公を名乗らなかったが、ニダラーフェンは事実上テイリール公国であり、トリエラはその首都であった。また現在本拠地となっているユリーツィアは離宮がおかれていた場所である。
  5. トリエラ産の蒸留酒はティルクレシア産と並び当時非常に有名だったらしく、イルファレンの市でも取り引きされていた記録が残っている。