第一章 魔女再来(1)

序へ

(2)

 僕はひたすら南を目指して歩いていた。フィオリア王国が設立される三年前、まだ僕ら草原の民が、北方帝国にも南部小国家群にも中立の立場をとっていた頃のことだ。雨季の直前で、アシュレ川南岸の居住地を出て既に一三日が過ぎていた。途中、僕たちが龍の墓場 1と呼んでいる場所で睡眠はとったものの、そのほかはほとんど歩きどおしだった。立ち寄ったオアシス 2にも、一晩泊まっただけで長居はしていない。

 でも、その努力もむなしく、眼前に居住地や人の姿が現れる気配は皆無で、僕は半ばやけっぱちになっていた。と、いっても東国人にはわからないだろうから、少しニレドの地理的・状況的説明をしておこう。

 ご承知のように、ファシュル―「東の地」と呼ばれるこの大陸は、その中央に広大な草原地帯を擁している。そこは、雨季には緑なすニレド、乾季には砂塵舞うニレドと讃え恐れられる地でもある。そして、折悪くその時は乾季のまっただ中であった。太陽は地を焦がさんばかりに照りつけ、それを遮るものはない。

 でも、当時この大陸にあって恐れられているものは、何も自然の脅威だけではなかった。その筆頭は何よりも北の帝国 3だ。かつては小国のうちの一つに過ぎなかったカポイル。しかし三〇年ほど前、そこで立て続けに銀山が発見され、大陸北部の状勢は大きく様変わりすることとなる。アシュレ川以北の国を次々と支配下に置き、カポイルは自ら北方帝国を名乗るに至った。そして今を遡ること一二年前。南部同盟国による第二次対帝国統一戦線 4が壊滅に追い込まれ、アシュレ川以南、ディラスケス川以北の地域は国境の定まらぬ不穏な地域と化した。

 それでも最近は、いや、僕自身が物心ついて以来、戦乱の影は見られなかった。僕はその当時数えで一二だったけれど、北側から攻め込まれたことも、南側からの進軍を見送ったこともなかった。僕ら草原の民は、何者からも支配を受けることなく、鳥を飼い、羊を育て、季節にあわせて草原を北に南に行き来した。そうして今年も、乾季の初めにアシュレ川南岸の居住地に戻ったのだった。

 しかし、その平穏は三日前唐突に破られた。男たちが馬でアシュレ川を越えたことに、何か関係があるらしいことは僕にもわかっていた。でも、なんですべての大人の男らが、大挙して川を越えたのか、越えねばならなかったのか当時の僕にはわからなかった。何しろ禁じられた川だった。長が反対しなかったはずはない。

 男らが居住地から川向こうへ姿を消すと、残された女たちは子供らに身を隠すか居住地から離れているように言い渡した。しかし、ほとんどの子どもたちは隠れることを選んだ。地下貯蔵庫、屋根裏、丘に横穴を掘った食料保存庫など、ありとあらゆる場所に子供らは身を隠し、女たちは入り口がわからならぬように塞いでしまったのだった。

 成年式を済ませる前の男の中で、僕は最年長だった。だから僕は、隠れることをよしとしなかったのだけれど、結局古井戸の底に下ろされてしまった。半分ほど埋め戻された井戸に、僕が渋々縄をつたって下りると、呼ぶまで決して出てくるなと言われ木蓋がされた。それ以来、長姉のニーナの姿は見えない。

 地上で何が起こっているのか、井戸の底では全く把握できなかった。どれぐらいの時間がたったのだろう。もしかしたら忘れられているのではないかと思い始めた。だが、一晩をそこで過ごし、木蓋が動いていないことを確認すると別の疑念が沸いた。族の人間はとっくに殺されてしまったのではないかと。そう考えると居ても立ってもいられなくなり、下ってきた綱をたどって井戸の外に出た。

 既に太陽は高く昇っていて、そして、そして誰もいなくなっていたのだった。

 ありとあらゆる場所を探した。僕はほとんどの子どもたちの隠れ場所を知っていたのだ。でも、そこには一様に強引にこじ開けられた跡と、あらがったについたと見られる土をえぐる足跡が残されていた。だけど、不思議と激しい戦闘の跡はない。血の跡や死体は人畜共に見えず、それどころか家畜は犬に至るまで姿を消している。何が何だかわからなかった。

 僕にできることは二つ。アシュレ川を越えるか、南のディラスケス川に居る草原の民に助けを乞うか。だが族の人間が姿を消したことが、北の帝国に関わりがあるらしいことを考えると、前者をとることははばかられた。

 むろん、皆に会ってその無事を確認したい。だが、万一彼らが捕われの身になっていたとしたら(その可能性は非常に高い)、自分一人ではどうしようもないことを重々承知していた。そして、川を越えないのであれば、僕は一刻も早くここを離れるに越したことはなかった。そうはいっても、南に行くことはあまり気が進まなかった。ディラスケス川以南には、今なお統一戦線当時の残党が跋扈している。草原の民は北とも南とも一定の距離を置くことで安全を保っていた。

 だが最近、南の草原の民に統一戦線の残党が近づいているらしいとの噂がある。草原北部で今後も安全に過ごしたいのなら、出来る限り近づきたくない存在だった。そして何よりも、僕が嫌悪し恐れているのは、魔女の存在だった。

 魔女。僕らの言葉で「ヘデライデ 5」と呼ばれるそれは、いくつもの忌まわしい伝説を持っていた。伝説における最古の魔女は、世界を支える柱の一つを破壊した 6と伝えられている。また、月を落とし、眠れる死者を呼び起こし、世界を二〇年のあいだ暗闇にしたという魔女 7もいた。そして、今の世に現れた、魔女。それは、体を切断しても何度も生き返り、人間の心臓を食らっているという話だった。

 助けを求めに行って、魔女に食われてしまっては元も子もない。それに、今回の一件は魔女と全く無関係とは思えなかった。魔女が現れる、南から悪しき者共を率いてやってくるという噂が、あちこちでささやかれていた。

 とはいえ、北の大軍と一匹の魔女では、どう考えても魔女にあたる確立の方が少ない。また、魔女を恐れて北に逃れてきたという草原の民は今のところいない。万一、今回の一件が魔女によるものならば、ここでぐずぐずしている方が危険というものだ。手持ちの情報からどちらが安全かということを考えれば、答えは南である。僕は持ち去られなかったわずかな食糧と、持てる限りの水を携え、昼には居住地をあとにしていた。

 旅は順調に進んだ。何しろ見通しのきく草原をただまっすぐ南下するだけである。行く手を遮る川も、険しい山もない。翌日の夕方には目標にしていた龍の墓場につき、ささやかな夕食を済ませ、持参した毛布に包まって岩陰で眠った。

 出発から六日たって草原中央部のオアシスに到着した。乾季の今は、代々オアシスの管理を行っているミトゥーカ族が残っているだけだった。僕は事情を簡単に説明して、南の親族に会いに行くので、水と食糧を分けてもらえないかとお願いした。

「やんぬるかな。最も恐れていたことが今起こりつつある。生まれてこの方、これほどの凶報に接したことはない。八七年前の瀬下の大洪水以上に恐ろしいことじゃ」

僕の話は、予想通り彼らに衝撃を与えることになった。迎えられた夕食の席(草原の民の伝統にならい、男だけが同席していた)で、知らせを聞いた者は老若問わず頭を抱えた。

「とうとう北が動き出したか」族長は僕の話に言葉少なに答えた。「しかし、今は南も安全とは言い切れぬ。用心に用心を重ねて行きなさい」

「ユリーツィア対岸に居住している輩は南とのつながりが深い 8。君が行くことで、騒ぎの引き金を引くことにならなければいいが」

族長の脇にいた若い男が心配そうに言った。

「その点は気をつけます。僕はただ、大叔父の一族に保護を求めに行くのであって、戦をけしかけるつもりはありません」

 草原の民が最も恐れていたことが、進行しつつあるのだ。僕も、僕の意に反して、僕そのものが非常な厄介者になってしまったことを自覚していた。こうなっては、草原の民といえど中立の立場をとり続けることはできない。北側に抗議するなり、反撃するなりすることになるだろう。僕は今、その引き金になろうとしている。

 しかし、かといって南側と手を組むかどうかは草原の民同士でも意見の分かれるところだった。一歩間違えれば、僕が草原の民分裂の引き金となってしまいかねなかった。

「いずれにしても、今日はゆっくり休んで疲れをとることだ。七日分の食糧を用意しておこう。それだけあれば、ユリーツィア対岸の居住地にはつく。井戸はここから南に二ヶ所あるから、水はそれほど心配しなくてもいいだろう」

 翌朝、僕は馬を貸してくれるという申し出を断って徒歩で出発した。彼らの雰囲気から、これ以上の迷惑はかけられないと思ったし、この先返しに来られないかもしれないからだ。彼らの予想外の事態が北でおきているように、南でも、僕の想像もつかない事態が進行しているような気がしたのだ。

 結論的にいえば、僕の勘はあたっていたのだけれど、やっぱり馬を借りなかったのは誤算だった。オアシスを出て七日がたち、そろそろ南の草原の民が遠目に確認できる頃になった。でも、おかしなことに日没近くになっても彼らの姿は愚か、羊の姿さえ見えない。

 僕は最後の食糧を口に入れて、身を隠すものが何もない場所で落ち着かない睡眠をとった。本当なら、もっと早く、二つ目の井戸が見つからなかった時点で気づくべきだったのだ。結局のところ、馬のない徒歩の旅は僕の目算を若干誤らせることになったようだった。当時の僕には、これほどの長距離を徒歩のみで移動した経験がなかった。また、草原を直線で横切ったこともなかった。おそらく進路を誤り、距離でいえば草原を三分の二程度縦断した地点で東の方に向かってしまったのだ。

 そして夜明け前。僕は不意に目を覚ました。何とはなしに自分が歩いてきた方角を見ると、そこに火の光を見つけた。松明か、焚き火か。判断はつかなかった。でも、僕が通った時に何もなかった場所から勝手に火が出ることはありえない。そして何より、自分が通ってきた方向に見えるのである。追手だ。僕は即座にそう思った。それ以外考えられる可能性はない。

 それ以来僕はひたすらひたすら歩いた。ひとときも、休まずに。


Notes:

  1. 草原北東部にある巨石が乱立している地点の通称。その大半は辰角ヶ岳山頂付近から切り出された火成岩であり、祭祀目的でそこに運搬されてきたと推定されている。ここにはかつて湖があり、そのほとりに都がおかれていたという伝説がある。このことについては第四章でアデーレ自身が、ガルシアから伝え聞いた話として語っている。
  2. 草原の中央からやや南よりに位置している。本文から当時草原の民の一部族が管理していたことがわかるが、一四三四年現在そのような管理者はいない。北側から攻撃を受けてオアシスが一時占拠されて以来、管理者不在のまま今日に至っている。
  3. かつてアシュレ川以北にはカポイルのほかノーディベルやグレスドールなどの小国が多数存在していた。これらの統合は東暦八五〇年代以降急速に進み、八八三年グレスドール公国の併合をもって終わる。
  4. 八八六年にテイリール公ハルシエルの呼びかけで結成された。結成当時、将軍にはカーディス・ゼイラン、副将にラゴレス・クレディオが任命された。しかし四年後の八九〇年にトリエラが陥落し、統一戦線は瓦解。南部同盟はディラスケス川以南に追いやられた。
  5. この言葉の語源には諸説あるが、グレスドールの古文献に見える妖怪ヘアディルがもとになっていると見て間違いないだろう。中央大陸からファシュル北部に伝わる魔女(アデライーデ)とは本来別の言葉というのが現在ほぼ定説となっている。
  6. ケディアの古伝説に登場するアデライーデ説話。世界の下には龍が九匹潜んでおり、それらが動き回らないよう頭に杭を打ち込んでいた。世界はその杭を柱として立っている。しかしアデライーデが誤ってひとつの杭を壊してしまい、世界は大地震ののちに大半が海の底に沈んでしまったという。これにより世に災いをもたらす女はアデライーデと呼ばれるようになった。その杭を抜き去った穴から人間を含む多くの生物が地底に下り、水が引くのを待ったといわれている。
  7. 『九龍記』に最初のアデライーデによる世界沈没後、五〇〇〇年ほどのちのこととして記録されている。龍押さえの杭とは知らずにある男がそれを薪として焼いてしまい、男は妻を杭代わりに差し出した。しかしそれに耐えられずに妻は逃げ出し龍は二つあった月のうちのひとつを破壊して天に去っていった。龍の飛び出した穴からは多くの巨人が這い出してきて大規模な戦乱が起こったという。
  8. 当時草原の南部は北部に比べて街道の整備が進んでおり、ニダラーフェン地方やユリーツィア地方との交易が盛んであったことを指していると思われる。またおそらく当時も現在と同様、草原南部の遊牧民はディラスケス北岸で農業を営み半農半遊牧の生活をしていたと推定される。