一人の男が、人の手の入っていない原生林の中を歩いていた。
いや、よくよくその容貌を観察すると、むしろ男と言うよりは少年と呼ぶべき年齢層かもしれない。
かなり長身でがっしりとした体躯、しかもひきしまっていて無駄な肉は一切ついていないが、腕や足につく筋肉はたくましく、服の下にあろうとも隠しようがない。
だが男としてほぼ完成されたその体に似合わず、その面差しには若干の幼さが残る。
少年から一人前の男へと変貌を遂げる最中の、どこか中性的とさえ言える雰囲気の片鱗を、彼はまだ残していた。
簡素ながらも鎧を身につけて、腰に太刀を一振り帯びているのは、彼が薪集めや山菜の採集などでこの原生林に足を踏み入れたわけではないことを物語っている。
森の深奥、それも、ほとんど人の手の入っていない原生林にまで彼が足を踏み入れたのは、最近出没する龍を退治して欲しいという依頼を受けてのことだった。
――別に甚大な被害が出ているわけではない。
だが、その森近くに住み、森から日々の糧を得ている者達にとって、日常空間のすぐ側に龍が潜んでいるという状況は、決して穏やかなものではない。
どこかからやって来て住み着いたのか、あるいは数が増えて人間の生活空間そばまで縄張りを広げざるを得なかったのかは分からない。
半年ほど前から、ここテラン北部の森の中で、龍と人間が鉢合わせする機会が急増したらしい。
むろん、龍の姿を目撃すると同時にほぼすべての人間が逃げ帰る。
そして、逃げ出す人間に対して龍は不思議なほどに無頓着だった。
だから、今のところ、龍によって命を取られた人間はいない。
ここテランは、龍の神をあがめる世界でもまれな信仰を持つ土地柄で、龍に対しては非常に寛容――というよりむしろ龍が住み着くなら人間側が出て行くぐらい龍を畏れて敬っている。
それにもかかわらず、ベンガーナとの国境近くに拠点を置いた剣術道場に龍退治の依頼が舞い込んだのには、のっぴきならない事情があった。
そしてその龍退治に赴いたのが、剣豪ルギウスに入門して間もないバランという少年であることも、依頼を受けた側の複雑な事情があった。
その原生林のすぐそばには、南リンガイアとテランをつなぐ街道が走っている。
街道の歴史は古く、昔から北方でとれる塩や海産物の加工品と、比較的温暖なテラン領内でとれる薬草が交易品として運ばれていた。
しかし分厚い山脈と深遠な森が街道の発展を阻んでおり、街道とは呼ばれていても道以外整備されておらず、非常に辺鄙な地域だった。
テランとベンガーナやカールを結ぶ街道沿いには、宿場町が存在し、ところによっては乗合馬車が走るなど、交通の便が非常によい。
それに比べるとこの街道は広くなった獣道というか、獣道に毛が生えたぐらいのありさまで、行き来する商人や旅人の数もさほど多くない。
南リンガイアへ向かう旅行者は、テラン領内の村に泊まって山越えをし、峠二つ向こうにあるフォーレスの谷で宿を取るしかない。
万が一天候が悪化した際には、途中に四箇所ある山小屋のうちのどれかに駆け込んで、風雨を凌ぐことが一般的である。
山小屋の管理は、この辺り一帯で山仕事に携わっている木こりや木地師たちが共同で行っており、非常に安い代価で宿泊が可能になっている。
彼らは一応テランあるいはリンガイア領内のどこかの村に所属していることになっているが、一年の大半を山の中で過ごし、材木や山菜、薬草などを現金に換えて生活必需品を手に入れる時ぐらいしか山から下りてこない。
いわば治外法権的存在なのである。
それでも、彼ら「山人」と呼ばれる集団は里の者と必要以上のいさかいを起こさないし、非常時には里の者に助力を惜しまない。生きるルールは違えど、隣人ではある。
それに引き替え、困った存在なのが旅人を襲って金品を強奪したり、時に里に侵入して盗みを働く山賊どもだった。
テラン領内の街道脇にある森に龍が出没すると噂になってから、龍退治をすると言ってテランの村に押しかけ、金品を要求する不届きな山賊崩れが続出した。
森の周囲に住む人間が困っていたのは、龍ではなくむしろ龍退治をかたる人間だったのである。
(まったく馬鹿馬鹿しい)
少年、バランは自分が龍退治に向かうことになったいきさつを思い返しながら、あまりの馬鹿馬鹿しさにため息をついていた。
退治される側の龍は、これっぽっちも悪いことをしていないのである。
悪いのはむしろ龍の周りにいる人間なのであって、その悪事の片棒を担がざるを得なくなった自分だった。
龍の側は人間を襲っていない。
龍を攻撃した人間を返り討ちにしたことはあるらしい。
しかしただ単に自分の武勲を誇りたかった人間が、森に生息するモンスターに襲われた時の傷を、ドラゴンにつけられたと言い張っただけの可能性もある。
本当に人間を殺そうと思ったのなら、龍が人間を取り逃がすはずがない。
龍はモンスターの中でもその強さは別格だ。
いや、龍の神などと呼ばれる存在が信仰の対象となっている時点で、モンスターと一括りになどしたらとがめる人間もいるはずだ。
とりわけテラン領内ともなれば、老人から罰当たり呼ばわりされてもおかしくない。
そもそも、何人もの人間が龍と鉢合わせしているにもかかわらず、龍が襲ってきたという報告は(少なくともテランの人間からは)上がってきていない。
つまり、その龍は人間を獲物とは認識していないのである。
飛行中も含めてかなりの目撃情報があるのに、今まで森から火の手も上がっていない。
おそらく龍はこの森を住処か餌場としていて、森を燃やさないよう、火を吹かずに生活しているのだろう。
そして、そこから類推される可能性は、龍たちの食性は草食だろうということだ。
もしかしたら火を吹く能力さえないのかもしれない。
人間側が下手に騒がず、森の奥まで踏み込まない限り、十分共存可能な状況なのである。
龍退治を頼まれて渋々この森ににやってきたバランも、本当のところは龍退治など望んでいなかった。
自分の武勲や名誉のために、おとなしい龍を殺したいとはつゆほども思っていない。
それは、ただ単に兄弟子たちの龍に対する恐怖心と、あわよくば目障りな弟弟子バランをやり込めてやろうという薄汚い魂胆が発端だった。
兄弟子たちの総意で、龍退治に適任な剣士として、彼が推挙されたのである。
未熟な自分では力が及ばない。そう言って辞退することもできた。
しかし、兄弟子たちをごぼう抜きにしてあっという間に師範代にまで上り詰めてしまったバランが、そんな断り方をすればかえって嫌みと受け取られる。
ただ単に龍に怖じ気ついたと思われてしまうのがオチだろう。
それに、兄弟子たちの魂胆は見え透いていた。
断るなら、龍に怖じ気づいた臆病者としてからかいのネタにする。
龍退治に出向くなら、目障りな弟弟子を厄介払いできる。
どうせ、たった一人で龍退治に出向いたところで、まず無事には帰ってこれまい。
何しろ、目撃者の証言から察するに、その龍はおそらく群で行動しており、そこそこの頭数がいるはずだった。
それに向かっていって倒されても、怖じ気づいて逃亡を図っても、どちらにしても結果は彼らにとって損にはならない。
万に一つバランが龍たちを退治したとしても、推挙した自分たちの目の確かさを証明することになるだけだった。
そういう訳で、どのような道をとってどのような結果になっても、バランにとっては不愉快でしかなかった。
一応ことの背景には、バランが幼少期以降山人によって育てられていて、この街道に土地勘があることもあるのだが・・・こちらの理由の方が後付けのようなものだ。
それでも、龍退治を引き受けて道場を後にしてきたのは、もうあそこにいるのも潮時だという判断からだった。
行商人のゼオルムを追って、2人目の養親であるオーランドの元を家出同然に飛び出したのは、約1年前のこと。
ゼオルムの紹介を受けて、剣豪として名高いルギウスの道場に弟子入りをした。
剣術の基本を教わると、自分でも驚くぐらいあっという間に上達した。
兄弟子たちでは、まったく相手にならないと言っても過言ではなかった。
それどころか、師範のルギウスとやすやすと渡り合うまでになってしまった。
その間、たった6ヶ月である。
「もう、おまえに教えることは、ほとんどない。少なくとも、剣術に関しては」
日課としている立ち会い稽古の後で、師範からそう宣告された。
「ここにいても、居心地が悪かろう」
出て行けと言うことなんだろうか。バランの表情に走った、一瞬の影を見とがめたのだろう。
「出て行けと言いたいわけではない」
そう言って、ルギウスは口の端にわずかな笑みを浮かべた。
「おまえは百人、いや万人に一人と言ってもいいぐらいたぐいまれな才能を持っている。残酷な話だが、やはり天分というものは存在する。どのように努力をしても、おまえのような境地にたどり着けない人間がいる。そして誰しも、自分が手にできないものをたやすく所有しているものに対して、うらやむ気持ちが芽生えるものだ」
それは重々感じていた。兄弟子の一部から受ける、言いがかりとしか言いようのない叱責や、干していた洗濯物がなくなるなどの陰湿な嫌がらせ。
初めは、ただ単に嫌われているだけだろうと思っていた。
それがやっかみによるものだと自覚したのは、かなり後になってからだ。
なぜなら、さらわれ者、龍の食い残しと呼ばれ、養親以外から恐れと侮蔑のまなざしを受けながら育ったバランにとって、人から嫉妬されるという事態が生まれて初めての経験だったから。
「まあ、やっかみの受け流し方を学ぶつもりで、ここにしばらくいるのも悪くはないかもしれん。社会経験という奴だ。掃除や煮炊きをしてくれるなら、気が済むまでここにいても構わん。だが、人間の醜さや意地悪な人間とのつきあい方ばかり学んでいても気詰まりなだけだろう。そうだな。たとえば少し魔法をかじってみてはどうだ?」
「ま、魔法、ですか?」
率直にいって、バランはあまり魔法には興味がなかった。
身近に使える人間がいなかったからということもあるが、力が強い以外に何の取り得もない自分では身につけられないような気がしたのだ。
「親兄弟や親族で使える人間はいなかったのか?」
師匠に悪気がないことは分かっていても一瞬返す言葉に詰まる。
「私は、山中に遺棄されていた赤子で、養親が拾った時には両親につながる手がかりは全くなかったそうです。だから血縁者については・・・」
「そうか。それならば素質がある可能性を否定はできぬな。ここより東方、ベンガーナ湾より2里ほど北にアンティルムという村がある。そこで魔法塾を開いている知人がいるから、行ってみるといい」