その男は、一見、人間としか見えなかった。
肌の色合いと言い、耳の形と言い、人間そのものだ。30代程の男もまた、一目で戦士だと判別出来る。射貫くような鋭い眼光をした男だったが、物腰は落ち着いていて穏やかそのものだった。
先程のヒュンケルと同様に回廊を歩いてくるその男に気がついたのは、クロコダインよりもハドラーの方が先だった。と言うよりも、ハドラーが微妙に緊張し始めた気配から、クロコダインは他者の接近を悟った。
それは、捕食される小動物と肉食獣の関係を思わせた。
互いに利害関係が重ならない獣同士ならば、例え近くに同類の肉食獣が近づいてきたと知っても、さして気にはしないものだ。
満腹ならば、肉食獣同士は無意味に争うことなどない。敵ではない者が接近したなと、確認し合うだけの話だ。
しかし、捕食の対象となる小動物はそうはいかない。
自分の天敵が近づいてきたと知ったのならば、警戒心を強く持つのが当たり前だ。
今のハドラーの醸し出す緊張感は、どこどなくそれに似ていた。
先程、ヒュンケルと出会った時の緊張感とは、また違う。ヒュンケルに対しては苛立ちや怒りを抑えながら平静を保とうとしているように見えたが、この男に対しては警戒心の方が強い。もしかすると萎縮しているのではないかと思える程、過敏な反応を見せるハドラーに、クロコダインは多少疑問に思う。
少なくとも、遠目で見る限りはその男に対して驚異は感じない。
実際、彼は前に会った二人の軍団長とはまるで違っていた。ハドラーに気がついた段階で軽く黙礼をしたし、さりげない動作ながらもスッと道を譲って歩調を緩める。
ヒュンケルやフレイザードと比べものにならない程、紳士的でそつのない振る舞いをする男だった。
だが、それにも関わらず、実際に接近した彼を目の当たりにしたクロコダインが感じたのは、とてつもない戦慄だった。
「……っ!?」
久しく忘れていた感覚に、背筋が一気にザワッとそそけ立つ。彼とすれ違いざま――即ち彼の攻撃範囲に入った途端、尻尾の先にまで走った震えに戸惑い、クロコダインはハッとしたように足を止め、男をまじまじと見返す。
「ど、どうしたと言うのだ?」
クロコダインの無礼とも言える反応に、ハドラーが些か慌てた口調で呼びかける。だが、ハドラーとは正反対に男はびくともしなかった。
「何か、私に用でも?」
穏やかな声でそう問いかけられてから、クロコダインは自分が斧の柄に手を触れていたことに気がついた。
それは、全く無意識の反応だった。
思わぬ失態に、クロコダインは内心舌打ちしたい気分だった。
この城に入る際、ハドラーも門番も武器を預けるようにとは一言も言わなかった。言うまでもないことだが、度量の小さい城主ほど出入りする者の武器に拘り、預かると言う名目で客人を無力化させようとする。
だが、度量の大きい城主ならば、客人の武装にいちいち口を出すような野暮な真似などしない。そして、そんな城主の度量に応じるには、己の武器に触れもしない態度こそが相応しい礼儀とクロコダインは考えていた。
さっきもあれほど挑発されながらも、ヒュンケルやフレイザードの敵意に反応しなかったのは、客人としての礼を守りたいと思ったからだ。なのに、そう思っていたことすら忘れて、武器を手にしていた自分にまず驚き、それが怯えゆえの行動だと気がついた時に、さらに驚かされた。
クロコダインが獣王と呼ばれるようになってから、ずいぶん経つ。強さを追い求め、より強い相手と戦うことを喜びこそすれ、恐れたことなどなかった。
それゆえ、初めて出会う相手に対して怯えを感じるなんて感覚を、ずいぶんと長い間忘れていた。
だが、たった今感じた戦慄は、紛れもなく怯えだった。知性では他の種族に劣りがちな獣族には、その分、野性的な原始の感覚が備わっている。戦わずとも自分よりも強い敵を敏感に察知するという能力は、獣族ならば誰もが持ち合わせている能力だ。
クロコダイン自身が意識していなくとも、原始の感覚は教えてくれた。
ハドラーに対してさえ感じなかった脅威が、目の前にいる穏やかな男にあることを――。
うっすらと流れる冷や汗を感じながら、クロコダインは武器から手を離して男に向かって姿勢を正した。
「いや、無礼をした。
……オレは、クロコダインと言う。失礼ついでに、貴殿の名を問うてもいいだろうか」
クロコダインの不躾な質問に、男は全く動じる気配すら見せなかった。ただ、一瞬だけ問うような視線をハドラーに向ける。
それは指示を仰ぐためと言うよりは、ハドラーにそれでいいのかと確認を取るための眼差しだった。ハドラーが軽く頷くのを見て、男は堂々たる名乗りを上げる。
「私の名は、バラン。魔王軍の超竜軍団長だ」
(この男も軍団長なのか……!)
やはり、と思うべきか、意外と思うべきなのか、クロコダインはしばし迷う。
フレイザードの忠告通り、この男は確かに化け物だ。外見だけは人間に近くとも、並外れた力を秘めている事実は隠そうにも隠しきれていない。正直、バランから感じる圧倒的なまでの覇気に比べれば、ハドラーでさえ霞んで思える程だ。
その意味では、意外だった。
これ程の男が、なぜ自分以下の魔王の下で働く気になったのかと疑問すら感じてしまう。
「ハドラー殿。彼が新しい軍団長候補か?」
「う、うむ、そのつもりだ」
短いやりとりの間にも、風格を感じさせるのはむしろバランの方だ。バランは落ち着き払った態度で、クロコダインに目を向ける。
冬山の空気のような、身を切るまでの冷たさと透明感が相混ざった目が、クロコダインを射貫く。
しかし、それでいてその目はやけに澄み切っていた。
「良い戦士だ。ハドラー殿の慧眼には、感服する」
威嚇や挑発とは無縁の、淡々とした褒め言葉だけを残してバランが通り過ぎた後、クロコダインはゆっくりと息を吐く。
バランの並々ならぬ覇気に気圧されたのか、知らない間に息を詰めていたようだ。
と、その衝撃もさめやらぬ内に、場違いにけたたましい声がかけられた。
「ハドラー様、こんなところにおりましたか。ヒッヒッヒ、お探ししましたぞ」
やけに下の方から聞こえてきた声の主を確かめるよりも早く、クロコダインは顔をしかめずにはいられなかった。
耳障りな声だった。
そのしわがれ声は、どうにもこうにも聞き心地の悪い声だった。滑舌はしっかりしているし、一応は敬語ではあるのだが、妙に相手との距離感を縮めた粘っこい感じがすると言うのか、何とも不快感がある。
ペタペタと軽い足音をさせながら近づいてきた声の主を見て、その不快感はさらに強まった。
(魔法使いか)
戦士の多くに見られる傾向だが、クロコダインもまた、魔法使いを見下す方だった。ひ弱で敵と真正面から戦おうとせず、遠距離から小細工を駆使して戦おうとする魔法使いには、軽蔑すら感じている。
パッと見たところ、目の前にいるのは典型的な魔法使いだった。
ごく小柄な老人で、人間の子供ほどの背丈しかない。しかし、それでいて微塵も可愛らしさの感じられない、小狡い印象の貧相な老人だった。
魔族であることを示す肌の色と大きな耳が特徴的な魔法使いは、どうやらハドラーには知己の存在であるらしかった。
「ザボエラか」
「おっと、お隣の大男の紹介には及びませんよ。そのリザードマンの名は、クロコダイン……百獣魔団の軍団長候補でございましょう……?」
ハドラーの先手を奪い取るような素早さで、ザボエラはそう言った。
問いかけの形は取ってはいても、それはまさに形ばかり。事実を確信しているかのように勝ち誇ってそう言ってのけるザボエラに、ハドラーは苦笑を見せる。
「相変わらず耳が早いな、ならば彼の紹介はいらぬか。
クロコダインよ、この男は妖魔司教ザボエラと言う。こやつも軍団長の一人……妖魔師団の軍団長だ」
「ほう」
唸るように押し出した相槌には、多少の失望が混じっていたかも知れなかった。
今までに会った軍団長は、いずれも戦士系の男達だった。クロコダイン個人の考えだが、軍隊を率いる将軍位には戦士こそが相応しいと思える。多くの兵士達を従えるのは、軍規や命令だけでは出来ない。他者を従えることの出来るカリスマと実際の強さを持ってこそ、軍を動かすに相応しいというものだ。
しかし、間違っても目の前の小柄な老人にそれは望めないだろう。
人の上に立つどころか、群衆に埋もれて見えなくなってしまいそうなほど小柄な老魔法使いは、クロコダインには見向きもせずにもみ手をせんばかりの仕草でハドラーにすり寄ってくる。
「それよりもハドラー様、ご存じでしたか? ミストバーンめが、ハドラー様を探しておりましたぞ」
「ミストバーンが? 何用だ?」
「ああ、それがハドラー様もご存じの通り、あの男と来たら口一つ聞こうとしないのですから、何の用かも分かりませんでしたな。
しかし、そこはそれ、このワシにはピンときました。あの傍若無人な男が動くとすれば、バーン様のご命令に他ならないでしょうとも」
ザボエラの口元が、大きく歪められる。どうやら笑顔のつもりらしいとクロコダインが気がつくまで、一拍の時間がかかった。
「ほれ、ハドラー様がお連れになった軍団長候補……その資質を見定めようとしているのではありませんかな?
なんと言っても、あの男ときたらバーン様の代行人と呼ばれていい気になっておりますからなあ。総司令であらせられるハドラー様を差し置いて、このクロコダインが魔王軍に相応しいかどうかを決めようとしているのではないかと思うのですがね」
重たげなまぶたの奥から、値踏むかのような視線がクロコダインに投げかけられる。
その目はヒュンケルやフレイザードの目とは比較にならない程、不愉快に感じられた。
ヒュンケル達の目が戦う相手を値踏むための目だったのに対し、ザボエラの目は商人のそれに近い。戦いなど最初から考えもせず、損得のみを推し量る目でじろりじろりとクロコダインを観察している。ハドラーと話す間でさえ、ザボエラは観察をやめようとはしなかった。
「ですから、ワシはハドラー様に進言しに来たのですよ。ミストバーンめがしゃしゃりでてくる前に、そのリザードマンをバーン様の所へ連れて行ってはどうですか?
なぁに、先にバーン様に新入りをお目にかけることさえ出来れば、後でミストバーンがどうこう言ったって、新しい軍団長を見付けてきた手柄はハドラー様のものになります、手柄を横取りしようとしてもそうはいきませんって、キヒヒヒッ」
「うむ、分かっておる。オレも後で、バーン様にお目通り願うつもりでいた」
やけに饒舌に、そして恩着せがましくまくし立てるザボエラのおしゃべりに閉口を感じたのは、どうやらクロコダインだけではないらしい。どちらかというと面倒そうにそう答え、ハドラーは先に進もうとする。
だが、ザボエラに抜かりはなかった。
「いえいえ、ご心配なく。すでにバーン様へのご面会の申し込みは整えております。となれば、一刻も早く魔王の間へ行かれた方がよろしいかと。
僭越ながら、お手伝いを」
そう言ったかと思うと、ザボエラは手にした杖を軽く動かした。自分の背よりも高い、蜘蛛を模した不気味な杖の先端が強く光り輝く。
その瞬間、一瞬の目眩を感じた。
咄嗟に床を踏みしめ直そうとしたクロコダインだったが、その足が空しく空を切る。階段を踏み外した時のような落下感に焦ったが、次の瞬間、足は再びしっかりとした床を踏んでいた。
その事実にホッとした後で、クロコダインは周囲の景色が一変したことに気がついた。いつの間にか、クロコダインとハドラーは巨大な扉がすぐ目の前にある回廊に佇んでいた。
「……これはっ!?」
ついさっきまでクロコダイン達がいたのは、城の一階部分の回廊だった。だが、同じような回廊とは言え、今、窓から見える風景はどう見ても上層部分の風景だ。驚いて窓枠から下を見下ろしたクロコダインは、遙か下に見える回廊の窓から、見覚えのある老魔法使いの姿を見かけた。
「どうやら今のは、バシルーラの変形のようだな。ザボエラめ、小癪な真似を」
苦笑するようなハドラーの言葉に、クロコダインは驚かずにはいられない。
バシルーラ――強制瞬間移動呪文は、本来ならば呪文を受けた者を本拠地へと強制送還する呪文のはずだ。だが、ザボエラはそれを、ごく短距離だけ移動させる様にアレンジをかけたらしい。
しかも、ザボエラが魔法を使ったのは回廊とは言え室内でだった。
瞬間移動呪文は、本来戸外で使うべき呪文だ。移動の斜線上に障害物がある場合、失敗する可能性が極めて高いこの魔法は、使い手のセンスが大いに問われる魔法と言える。
その魔法を、ザボエラは見事に室内で使ってみせた。いくら窓が開いていたとは言え、生半可な腕までできる技ではない。魔法に疎い戦士であっても、その腕前には驚かずにはいられない。
(なるほど、あやつも軍団長に選ばれるだけのことはある、と言うわけか)
正直、これまで出会った軍団長の中ではもっとも好感の持てない相手ではあった。だが、それでもザボエラが捨て置くことの出来ない魔法の才を持っていることだけは確かなようだった――。
扉の奥に広がるのは、奇妙な部屋だった。
やけに広いその部屋は、白く、眩い大理石を敷き詰めた床とは対照的に、ごつごつとした岩山がそのまま壁のそこかしこに残っている。それは建設途中なのではなく、元々そう言うデザインなのだろう。
床と壁の落差があまりにも大きいため、人工の建物の中にいながら自然の岩山の中にいるような錯覚すら覚える部屋だった。
まず、目につくのは巨大な玉座と、さらにそれよりも巨大な魔法陣だった。六芒星を形取った魔法陣は、どういう仕組みなのか玉座の背後に浮かんでいる。そして、その中央には三本の角を生やした魔族の顔の彫刻が刻まれていた。
岩の質感を残した無骨な彫像の顔は、鬼岩城の外観に酷似していた。
王座と言うには、あまりにも風変わりな部屋だった。
部屋に入ったハドラーは、空っぽの玉座の前で足を止めて恭しい口調で話しかけた。
「大魔王バーン様、ハドラー、ただ今まかりこしました……!」
「……?」
ハドラーのその行動に、クロコダインは戸惑わずにはいられない。なにしろ、玉座は空なのだから。
だが、その疑問を口にする前に、その場の空気が変わった。息が詰まるほど重厚な雰囲気が満ち、石の顔の目に赤黒い光が浮かぶ。まるで鳴動するがごとく、数度点滅をくり消したその光は唐突に深紅に変わる。
そして、重みのある声が石像から聞こえてきた。
「うむ、待っておったぞ」
低音の男性の声は、ちょっと聞いただけでは年の見当がつきにくいものだった。ゆったりとした落ち着きは、年配者の物とも思える。だが、声だけでも感じられる堂々たる迫力が、その声に張りを与えていた。
ごく短い言葉なのに、ずしりと腹まで響く声だった。
だが、それ以上に驚きなのは、声だけなのに人を惹きつけるだけのカリスマを感じさせる事実だった。
「新しい軍団長を連れてくると聞いて、楽しみにしていた。ほう……おまえが、そうなのか?」
「は……っ!」
思わず、クロコダインは姿勢を正してその場に跪いていた。仮にも獣王と名乗っていた男が、まるで長年使えている王に仕える主君に対するかのように。
それを屈辱的だとさえ、思えなかった。
クロコダインは今、畏怖の感情を抑えつけるだけで必死だった。
(な……何者なんだ、大魔王バーンとは……っ!?)
バーンは、今、目の前にいるわけではない。
魔法道具に疎いクロコダインは詳しくは知らないが、遠く離れた場所から何らかの手段でこの場を見て、声だけを送り届けているのだろう。
しかし、そんな薄い繋がりしかない相手に対して、クロコダインの獣の本能は最大限の警戒心を打ち鳴らし続ける。その恐怖は、バランに会った時よりも遙かに大きかった。
絶望的なほどの恐怖心を感じながら、クロコダインはふと思う。
(――格が違うな)
バランに会った時は、クロコダインは無意識に戦闘態勢を取らずにはいられなかった。しかし、バーンへの謁見がかなった今、クロコダインは意識するより先に膝を折っていた。
バーンに対して戦うなど、思いもしなかった。
と言うよりも、おそらくできもしないだろう。
獣が戦うのは、生存のための手段だ。あるものは食糧を得るために、またあるものは己の縄張りを守るために、またあるものは自分の命を守るために、獣は常に命がけの戦いを強いられる。
しかし……これは、生存の可能性が全くない戦いだ。
魔法道具を使って、声とシルエットの一部しか見えない限定的な対面にもかかわらず、圧倒的な恐怖がクロコダインの身体を金縛りにする。
直接会おうとしない無礼な態度を、非難する気にもならなかった。むしろ、相手と少しでも距離を置ける現実に安堵する気持ちすら生まれている。
それぐらい、大魔王バーンの実力は桁違いだった。
少しでも気を緩めれば獣の本能に従ってそのまま逃げ出したいと思いたくなるほど、絶望的な恐怖を感じる。
ここまで実力差の離れた敵を前にしては、選択肢は二つしかない。
相手に従うか、殺されるか――それだけだ。
「そうかしこまらずとも、よい。それよりも、なかなかの戦士ではないか……さすがはハドラーだ。余が選んだバランに続いてこの男が魔王軍に加われば、まさに盤石の部隊になることだろう……そうは思わぬか?」
わずかに問いかける様なその言葉に応じて、王座の付近の空気がゆらりと揺れた。
陽炎の揺らめきのように風景がぐにゃりと歪んだかと思うと、白い影がすうっとどこからともなく現れる。空の玉座の右側に、当たり前のように現れたのは白い長衣姿の男だった。
だが、それは普通の魔族とはわけが違う。
彼には、顔がなかった。
「……!?」
思わず、クロコダインは彼をまじまじと見返してしまった。だが、いくら見たとしても、その顔は見いだせない。全身をすっぽりと覆い尽くす長衣の中に見えるのは、漆黒の闇……そして、二つの光がぽっかりと双眸の位置で輝いていた。
「………………」
無言のままだが、正体不明の男は石の顔にむかって恭しく頷いてみせる。あたかも、そこに絶対君主が存在するかのように。
魔王であり、魔王軍総司令の地位にいるはずのハドラーを差し置いて、そここそが自分の場所だとばかりに玉座の右手の場から悠然と自分達を見下ろす男の名を、ハドラーが教えてくれた。
「……紹介しておこう。彼は、魔影軍団長ミストバーン――軍団長の一人だ」
先程聞いたばかりの名に、クロコダインは深く納得するものを感じた。ザボエラがあれ程警戒し、フレイザードが化け物と評した軍団長の一人……確かに、今、目の前にいるのは化け物としか言いようがない。
まるで幽霊のように気配がなかった。
この部屋は、さっきの回廊と違って窓などない。つまり、移動呪文を使ったはずがない。それにもかかわらず、どこからともなく現れたミストバーンにもクロコダインは畏怖を感じる。
バランやバーンのように、一目見ただけでも感じ取れるような覇気はない。だが、その分底知れぬ不気味さが、ミストバーンにはあった。どこまでも深く、底の見えない沼のように、そこに囚われたら二度と這い上がれないのではないかと思わせる恐ろしさを感じさせる男だと、クロコダインは思う。
(これが……魔王軍か!!)
それは、クロコダインが漠然と考えていた組織だった軍隊とは全く違う。あまりにも個性的な軍団長達を揃え、バーンがこの先どう戦うつもりでいるかさえクロコダインには予測不可能だった。
だが、それだけにどこかしら期待感じみた感情があった。
これ程の規模の城も、これ程規律とはかけ離れた将軍を揃えた軍隊も、前代未聞だろう。ならば、この先の魔王軍がどんな動きを見せるのか、純粋に興味が湧き上がってきた。
しかも、その長であるバーンもまた、クロコダインに興味を抱いてくれている様子だった。
「余も、貴公を大いに気に入ったぞ。余からも、勧誘しようではないか。我らが軍に入って、覇を競うつもりはあるか?
もし、余に従うのであれば、望むものは全て与えよう――」
(おお……!)
瞬間、例えようもない高揚感がこみ上げる。
思いがけないバーンからの誘いを聞いて、クロコダインの中に真っ先にこみ上げてきたのは歓喜の思いだった。
『貴公』と見下されたことすら、気にならなかった。
心底恐ろしくてたまらないと思った相手に認められることが、これ程まで誇らしく感じられるとは想像もしていなかったが、舞い上がりたいほどの喜びを感じていた。
報酬以前に、自分が認められたという喜びの方が強い。
尊敬に値する王者に、自分の力が活かせる場を約束された。無条件で頷きそうになったクロコダインだったが、その時、彼は気がついた。
自分のすぐ隣にいるハドラーの、握り占めた拳がかすかに震えている事実に。
「…………!!」
思わず、クロコダインはハドラーを見返していた。
クロコダインと同様に、服従を示す姿勢を取っているハドラーは、表情には何の不満も見せてはいなかった。忠実な部下のごとく、従順に主君の話を聞いているだけに見える。
しかし、マントの下に隠れた場所で握りしめた拳に、彼の本音が現れていた。
白く、筋張るほどに握り占められたその手は、密林で出会った時と同じだ。
大魔王バーンへの反抗心を捨てず、いつか反旗を翻す決意を込めて握り占められたその手を、クロコダインはしばし見つめる。
そして、石の彫像に向かって姿勢を正した。
「いえ、身に余る光栄ながら、そのお誘いは断らせて頂きたい」
そう言った途端、ミストバーンの身体から冷たい殺気が放たれる。主君の誘いを断った者には死を与えるとばかりの殺気だったが、それは他ならぬバーン自身の声によって霧散した。
「ほう? 魔王軍に入るのは、嫌だと言うのか?」
怒るでもなく、むしろ面白がっているように尋ねてくる余裕がその声にはある。その度量にも感心しながら、クロコダインは答えた。
「いいえ」
今度もまた、クロコダインはきっぱりと答える。
これほどのカリスマ性を持つ魔王を前にして、自分の意思を押し通すとするプレッシャーは半端なものではなかった。
だが、それでも男には通さねばならない意地もある。
腹の底にぐっと力を込め、クロコダインは気圧されぬように気迫を込めて言い放った。
「もし、許されるのならば、及ばずながら魔王軍の一員としてこの身を賭して戦いたいと思っております。
ですが、勧誘は無用と存じます。すでに、オレはハドラー殿に誘いを受けておりますので……!」
その発言に驚きを見せたのは、ハドラーの方だった。
まさかクロコダインがそう言うとは思わなかったとばかりに、大きく目を見開いている。
ミストバーンの見えざる双眸でさえ、繰り返して点滅している様は驚きのあまり瞬きしているように見えた。
だが、ただ一人、バーンだけは愉快そうな高笑いを響かせる。
「ハーッハッハッハ、これはいい!!
なんとも、義理堅いことだな……結構、大いに気に入ったぞ。よかろう、おまえのことはハドラーに任せよう。
ハドラーよ、頼もしい軍団長を見付けてくれたものだな。余は満足しておるぞ……これで、六人の軍団長が勢揃いしたというわけだ」
この瞬間に、魔王軍六団長は誕生した。
それは、魔王軍が地上侵攻を始める2年前の出来事……南の島に住む小さな勇者は、このことをまだ知らなかった――。
END